Plastic Flux搬入@graniph福岡店

graniph福岡店のショップ内ギャラリーにて、こないだの個展で出していた大きな作品、Plastic Flux (continental drift [大陸移動])を搬入。レントゲンヴェルケプロデュースのギャラリーで、となりには内海聖史さん、カンノサカンさんなど、実力派の作品が並んでいるので緊張しました。年明けまで展示していますので、お近くに行かれる際にはぜひ。ショップにTシャツを買いにきたオシャレな若者たちが作品を見てゆく、こういう作品との出会いがあってもいいんじゃないかと思います。




このショップのある天神はなかなかコンパクトにまとまった良い繁華街で、若者の多い通りと、年齢層の高そうなアーケード街とが隣に並んでいたり、そこから少し歩くと赤坂という、自由が丘のような(?)趣のある落ちついた街があったり、いろいろ発見がありました。ぼくは福岡出身なのですが10歳くらいで京都に引っ越してますので、もはや土地勘は効かないし、そもそもゼロ年代を通じて場所のありかたが完全に変わってます。とくに郊外のAEON MALL福岡ルクルにも行きましたが、レジャーとしても生活インフラとしても影響力を持っているようで、書店などはひたすら売り場が広いので、いろんなものがそろえてあったりする。人文系、美術系に関していえば、都内の大型店舗にくらべてもほとんど遜色なかったり。


そしてTwitterをはじめました(http://twitter.com/kosukeikeda)。まあ、メールすらも面倒だという人間なので、飽きずに続くかどうか不明ですが、意味のないことを時々つぶやいてみることにします。それがTwitterだから!

MOTコレクションの岡崎乾二郎

東京都現代美術館の常設展にて特集展示されている岡崎乾二郎展(参考リンク)がすごい。導入部には初期代表作「あかさかみつけ」シリーズ、メインフロアでは大作が三組、2002年、2005年、2008年のものを時系列順に配し、その周囲では近年の小作シリーズ「ゼロサムネイル」が並ぶ。やはりひとまずは大作絵画に瞠目させられるわけだけど、そのなかでも複数の作品同士の目に見える対応関係が弱くなって、マニエリスムに近づいているように見える近年のものが興味深い。
http://kenjirookazaki.com/#/jp/1/10/


マニエリスムというと誤解を招くかもしれないけれど、その印象は、今回意外なほどフィーチャーされた「ゼロサムネイル」シリーズから流れ込む形で与えられていると言えるかもしれない。ゼロ号あるいはサムホールサイズのキャンバスに、放逸なストロークで絵具を盛り上げられた約60点もの小作品群が、両側の壁面に軽やかにリズムをきざむように配されて楽しい。こういう良い意味でマニエラ(手技)の豊かなヴァリエーションの延長線上にありながら、しかし大画面を与えられた三幅対には、そういったマニエリスティックな充実が、単体のキャンバスレベルで実現されているように見える。黄金比によるキャンバス配置など、トリプティックならではの魅力もあるけれど、特に左側の画面の、見る者を圧するまでの強さを持った寒色系の扱いはこれまでにみられなかったでのはないか。


この近年の地点から時代を巻き戻してみれば、トリプティックの向かいには、柔らかく閉じたブロック状の筆致のディプティックが美しく、あるいはより初期の、色彩や形態、マチエールといった諸要素が一対の作品間で対位法のようなネットワークをつくりだす2002年の作品にもクラクラさせされる。つまり2002年の段階で目も眩むような構造的な対応関係が頂点に達し、次の段階で柔らかな筆致が内側に巻き込むようにして色彩が個別の単位性を強め、さらに近作に至っては、こうして個別の単位性を強めていた色面が鋭いエッジを持ちながらねじれ、多方向に開かれていく。色彩も同様に、これまでの岡崎作品にみられるような諸力の均衡状態とは異なる、突き抜けるような彩度の高さを持つことで、作品の裏側にあって絵画の諸パラメータを結びつけていた構造の編目を内破するかのようにも見える。


不可視の構造に対する表面的マニエラの勝利?──ふつうに想定されるこれまでの岡崎絵画の理解でいえば、色彩、筆致、マチエールといった絵画の諸要素が複数の画面の間で響きあい、それら諸力の均衡した場を生み出す知的で構造的な面が強調されていたように思う。しかし、とくに「ゼロサムネイル」の流れと共に近年の作品を見るならば、これまでの解釈では理解の及ばない段階にまで足を踏み入れつつあるのではないかと考えたくなります。ひとまずここではそれを、表層におけるマニエラの徹底操作をつうじた下部構造の錯乱、とメモ書きしておくこととして、第二期(2010年1月26日-)にも期待したいと思います。


企画展示のレベッカホルンラグジュアリー展はどちらも充実。半日くらいかけてゆっくり過ごすのは悪くないと思います。疲れたら二階のベトナムカフェも。

個展、無事終了。

土曜日に個展のクロージング。Kunst Oktoberfestの企画で周辺ギャラリーを巡回するバスツアーが行われていたこともあり、たくさんの人に来て頂きました。その他、お会いできなかった方も多いのですが、ご来場頂いたみなさま、ありがとうございました。展示風景も含むレヴューを頂いていますので、来られなかった人はぜひ。
ex-chamber museum review:池田剛介 Plastic Flux


僕自身はまだまだ始めたばかりなわけですが、活動を持続的に見守ってくれている人がいることをありがたく思います。リアル空間で特に仲良くしているわけでもないし、ネットでのコミュニケーションもたいしてない、そうした人たちが展覧会やシンポジウムにわざわざ足を運んでくれているということは、希望でもあるし、良い意味でプレッシャーにもなっています。今のところ、それなりには意識的にベタな制作とメタな批評とを乖離させたような形で活動をしてきているわけですが、そういう感じでやっているとこれら二つの活動に関心を持ってくれているオーディエンスの層がかなり異なっていることに今更ながら驚いてしまう。多くの制作者を含め、作品に触れている人は批評や言説に関心がないし、批評に関心がある人は作品を全く見ていない。この断絶がもたらす相互閉鎖をどう錯乱させていけるのか。オーディエンス動員の問題などではなく、こういった現状が、作品と批評がお互いを鍛えていく可能性を阻害していることこそが問題。半ばこういう事態への危機意識があり、半ばなりゆき的にですが、いまのような活動の形態になってしまっている。


この乖離を、より身体的なレベルに近い形でのコミュニケーションを通じてつなぎうるメディアとして、たとえばtwitterなんかも考えることはできるし、まあ気が向けば実験的に使ってみるかもしれません。たぶん使う。が、こういう身体に近い部分でのメディアを「うっとうしい」と感じるのも事実(じつはtwitterのアカウントは持っているのだけど、まだ一度もさえずってない。「逡巡w」とか言われそうだけど)。まあでも、コミュニケーションのうっとうしさに巻き込まれながらも、結局は孤独に自分の作品を展開していけるだけの強さが必要だということかもしれません。少なくとも、作品を制作するということは必然的に、ある種の狭さと向かい合うことでしかないのだと思う。


そういうわけで、しばらくは年末に向けたあれやこれやで準備を進めることになります。そのあたりの関係で福岡.(11月)、京都(12月)にも滞在予定。楽しみです。

物語の問題、つづき

前のエントリからの続き)
ひとまずは、他者をどう扱うかということにかかっている。他者のない世界をどう描くか。ロビンソンは無人島にたどり着くことで次第に他者構造を失う。ある主体は他者の視線を通じて、自分のヴィジョンに捉えることのできない世界のありように眼を向け、ひいては自分の有限性に眼を向けるものと考えられる。他者を失うということは、自分の認識を越えて対象をみる可能的な視線を失うということなので、世界はひどく限定されたものになりかねない。この有限性に自己充足することがナルシシズムの典型だといえる。


しかしトゥルニエ論でのドゥルーズによれば、他者とは認識の枠組みを自分に強いるものでもある。当初、無人島で他者を失うことは、自らの有限性にとらわれた世界に取り残されることであるかのように思われた。しかし、そもそも有限性に向けられる視線もまた、他者を通じた視線でしかない。他者を失うことで、こうした認識の枠組みから開放されていくことに気付く。他者とは可能世界の表現だった。そういった可能世界から解除されはじめた時点でロビンソンと出会うフライデーの存在は、ドゥルーズによれば「他者とは別の」ものだという。このフライデーはやがてロビンソンと一体化しながら、しかしその内側から自己を揺さぶっていくような「他者とは別の」存在だということができると思う。


つまり考えたいのは、可能世界を通じることなしに、しかし同時に単なるナルシシスティックな自己充足に陥ることなく、ナルシシズムを内在的にねじること。例えば、「絵画を再起動する」で『ダークナイト』について話したのは(参照)、バットマンが鏡像としてのジョーカーに向かい合うシーンに半回転が挟まれていることの重要性でした。他者的な理念(「法」をこえた「正義」の理念)に従って行動するバットマンが、その反転である純粋な悪としてのジョーカーと一致していくシーン。これは非常に危ういナルシシズムにギリギリまで触れながら、つまりバットマンとジョーカーがほとんど一体化しながら、しかしそれが完全に一致し静止することなく旋回運動を続ける、そこへ開く回路として半回転が差し挟まれてるんじゃないかということでした(バットマン-ジョーカーがロビンソン-フライデーとなる可能性)。


似たようなことは、同じくノーランによる『メメント』にも見てとれます。基本的には、妻がレイプされて殺される、このトラウマを補うべく犯人に復讐する、というベタに近代的な物語構造を踏襲している。そしてこの物語は近代的な自己の精神構造とも重なっているわけです。しかし『メメント』の面白いところは、そういう近代型の精神構造をもつ物語が、脳の損傷というマテリアルなレベルを通じてバラバラになっていくところでしょう。マテリアルな損傷が近代型の自我を破砕していくと同時に、物語構造そのものをも破砕する。『メメント』はトラウマを通じた自己同一性の確保と自己の破砕との間のテンションで支えられている。『ダークナイト』は、もう一歩危うい地点でナルシシズムに触れようとしているところが良いんじゃないかと。


(そういえば、先日トーキョーワンダーサイト田中翼さんのコンサートに行った時に、面白い高校生だってことで紹介されて話していると、彼がwebで「絵画を再起動する」を読んだとか言っていて、すごく驚いた。こういうことをしてる人。高校生やべえ、ということで盛り上がりました。)


ともあれ、こういう近代型の物語構造(精神構造)とは「別の」物語(存在)の可能性を考えてみたい。それは父性(他者)的なものでない、悪しき「母性のディストピア」(宇野常寛)なんじゃないかとも言われかねないわけですが、まあどっちかといえばアルツハイマー的な方向性をポジティブに考えてみたいのかもしれません。そういう意味で、短編映画集『セプテンバー11』のショーン・ペン作品なども別のところで取り上げたりしていますが、これまた見ようによっては母性への回帰とも思われかねないですね..長くなってきたので、このあたりで切り上げて、また今度続けるかもしれません。

個展、ご来場感謝。物語の問題

今月末まで開催中の個展(詳細こちら)には9日のオープニングをはじめ、多くの方に来て頂いていて感謝です。聞こえてくる限りではそれなりの反応を頂けているようで、うれしいです。会期は今週末の土曜日までですが、クンスト・オクトーバーフェスト'09(バスツアー)もあり最終日は人が多い可能性も。ゆっくりご覧になりたい方は平日にぜひ。ビール好きの方は土曜日にぜひ。今週金曜日、土曜日はだいたいギャラリーにいる予定でいます。


こういったレヴューもちらほら頂いています。ありがとうございます。
http://blog.masayachiba.com/?eid=1101392
http://d.hatena.ne.jp/OEIL/20091011/1255258852

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ようやく個展がはじまり制作に一区切りついたので、煩雑めな仕事をかたづけながら(こういう仕事は制作に集中してる間は全然進まない)、ひさびさに小説をいくつか読んだりしていた。『意味の論理学』所収のドゥルーズトゥルニエ論は好きだったんだけど肝心の小説の方は読んでいなかったミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』。トゥルニエのロビンソンは、そもそもデフォーの『ロビンソン・クルーソー』の翻案なわけだけど、『人魚姫』の翻案としての『崖の上のポニョ』と重ねて読むと面白いんじゃないかという予感。


デフォーのロビンソンは無人島で「野蛮人」や野獣におびえながらも家を造り、田畑を耕すことで、文明を構築していく。その後「野蛮人」フライデーを(殺し損ねることで)助け、奴隷にして、自らの文明の中に取り込んでいく。トゥルニエもある段階までは、こういうロビンソンとフライデーの関係を踏襲するのだけど、やがてフライデーが様々な形でロビンソンを裏切り始めて、やがて島に仕込んである火薬を爆発させて築いた家を吹き飛ばしてしまう。この辺りから、ロビンソンとフライデーとがほとんど一体化しつつ、フライデーの放逸で理解不能な行動に巻き込まれるように、合理主義者ロビンソンもまた、しだいに錯乱をきたしていく。ここでのロビンソン-フライデーの関係は宗介-ポニョの関係と近いように思われる。宗介は冒頭、異常なくらい大人びた子供として描かれ、正義感からポニョを助けるが、後半ではポニョの意味不明な睡眠や変身に巻き込まれ、泣き出したりする。


いったん話が外れるけど、普通に言えば「ポニョ」の面白さは、その運動性にあるわけで、とくに中盤、宗介をのせたリサの車が海岸沿いの崖を疾走し、それを津波の上のポニョが猛烈なダッシュで追いかける、あのシーンなんかは宮崎アニメが描いた運動の中でも際立っていると言えるだろうし、よく指摘されていることだと思う。まあそれは当然としても、ポニョの作品としての「異様さ」は、むしろそういった運動性と共に展開される近代型の物語を消費し尽くした「後」の時間を描いてしまったところにあるんじゃないかと考えてみたい。


これは8月にSpiralでのシンポジウム(参照)で少し話したことでもあるんだけど、『ポニョ』の後半はとても不思議な物語性を持っていて、これがこの作品を突出したものにしている。そもそも『人魚姫』であれば物語の結末に、人間と魚との中間にある人魚が、インディヴィデュアルな「人間」になるか、ディヴィデュアルに霧散し「海のもくず」となるか、という決定的な選択を迫られて結末を迎えるわけだけど、先のような過剰な運動性のはてに物語のクライマックスをへて崖の上で宗介と結ばれたポニョには、人魚姫のような決定的な選択を迫られることがない。その後、かろうじてリサ探しという動機が与えられるけれど、ポニョにとってはもはや動機にすらなってない。すべてが終わった後に、自らの意志と関係ないところで変形が起こる、人間と魚の中間の状態を生きる時間。突如デボン期の海が出現するこの後半は、どこか神話的な手触りを持った時間でもある。これはほとんどポストヒストリカルな(歴史=物語以後の)物語を描いてると考えられるんじゃないか、と。


ちょっと長くなったので、ロビンソンとつなぐのはまた今度、気が向けばということにして、とりあえずざっと言ってしまうならば、こういったポニョ的な物語性は、トゥルニエのロビンソンのなかでフライデーが家を爆破してしまったあと、ロビンソンとフライデーが一体化しながら、その内側から自己の錯乱が引き起こされていくような時間の描かれ方と近いんじゃないかと。こういった「物語」ーーオタクカルチャーにおいてはキャラクターのほうが重要なんだという議論が強いわけですがーーに最近関心があるようです。この辺りは、こないだまでオペラシティで展覧会をしていた鴻池朋子さんや、別の文脈で話をしたクリストファー・ノーランメメント』なども含め、文学・映画・美術など、様々な媒体を貫いて問題になりそうなところですし、今後考えていければと思っています。

池田剛介 展 | Kosuke Ikeda, Plastic Flux

■個展のおしらせ
http://www.kosukeikeda.com/

池田剛介
Kosuke Ikeda, Plastic Flux


2009.10.9(Fri) - 10.31(Sat) 
11:00 - 19:00
Closed on Sundays, Mondays, and National Holidays
LOWER AKIHABARA.


オープニングレセプション 10.9(Fri)17:30 - 20:00
※10.31(Sat) クンスト・オクトーバーフェスト2009 詳細はこちら





以前公開されていたものから、会期が変更になりました。上記の通りですのでご注意ください。久々の新作シリーズ発表で緊張気味ですが、ここ数ヶ月かけて取り組んできた成果をご覧頂ければと思います。9日にオープニングがありますので、みなさまぜひお立ち寄りください。gallery αMFOIL GALLERYTARO NASUレントゲンヴェルケなども隣接していますので、こちらもあわせてどうぞ。

レクチャーのおしらせ、exp.シンポジウム

作図の地殻変動とアート | 池田剛介
東京藝術大学 取手キャンパス メディア棟 2F
9.11(金)14:10-15:35

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遠近法や地図作成に代表されるように、作図を行うことの本質には、三次元的な世界をいかに二次元へと落とし込むか、言い換えれば、世界の複雑さをいかに縮減し、均質な視覚的平面において表現するか、という問題がありました。こうした視覚中心主義は主に西洋近代を通じて徹底され、芸術においても20世紀絵画のモダニズムに典型的にみられるような、視覚の特権化が押し進められます。


1980年代以降、美術批評はこうした視覚中心主義に対し、精神分析学や生理学の議論を踏まえた批判を加えます。私たちの知覚や認識が、視覚に特権化されることのないメカニズムにおいて作動しているという前提のもとに、様々な形での作品の読みが展開されてゆきました。


そして現在、こうした精神分析学や生理学が、脳科学をはじめとする新たな知見によって揺さぶりをかけられています。現代フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーの議論は、脳損傷再生医療の例などを踏まえ、精神分析に根本的な見直しを迫っています。このことは、遺伝子レベルで作図された私たちの感覚のメカニズムそのものに新たな考察を投げかけうる、先端的な問いだと言えるでしょう。こういった問題系をその本質において捉えるような美術・映画作品などを紹介し、制作実践レベルの問題と接続させてゆくことが本レクチャーの目的となります。

今週金曜日の9.11(!)、たほりつこ先生が担当されている「図学」の授業の一環として、東京芸大取手キャンパスにてレクチャーがあります。これまでの千葉さんなどと展開してきた議論をやや強引に「図学」という枠組みと接続する形で話してみようと思っています。

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土曜日のトーキョーワンダーサイトでのシンポジウムは、オープニングと重なっていたこともあり、とても多くの方にご来場頂き感謝です。web上でもいくつかレポートや、議論を踏まえた上での意見なども頂いています(こことかこことか)。こうして議論がある程度まで共有されていること自体、美術においてここしばらくなかったことなので、とりあえずは良いのではないかと。シンポジウムとしては、途中で気候変動が起こり(!)、たいして議論が展開できないままに終わってしまったので、ちょっと申し訳なかったのですが。


しかし大ざっぱな印象で言えば、芸術というのが未だに、何か不可侵な外部性へと開かれるようなサディスティック-「混沌」的なモデルで捉えられている気がするのですが、どうなのでしょう。まあ、そのあたりの趣味性は分からなくもないのですが(というかぼくも好きなのですが)、その大部分はおおよそ秩序ー混沌の対立軸の中での「カオス」イメージでしかなく、ちょっと前提として古いと思う(趣味的には好きだと言いましたが、趣味なんて基本的にハビトゥスで操作できると思ってるので、現代美術系のギャラリーに通えばその趣味を獲得できるし、ニコ動を見まくっていればそこにアディクトできる。左翼系運動も続ければそういう趣味にもなるでしょう、という程度。なので、とにかくそういう趣味性は批評には関係ない、というだけです)。ともかく議論で問題にしていたのは、「生成変化」や「トランスメディウム」といった話を、カオスのイラストレーションのようなものからズラしておきたい、ということ。むしろ一見秩序立って見えるものの中にこそ、微細なヤバさが振動しているということもある。フェルメールなんかはこういうものを体現する作家としてきちんと扱いたかったわけですが、しかしこの辺りを強調すると脊髄反射的に「保守w」とか思われちゃうツラさもあるわけですね、まあ別に気にしないんですけど。


ともかく芸大でのレクチャーを終えれば、再び個展に向けて制作に集中できそう..