物語の問題、つづき

前のエントリからの続き)
ひとまずは、他者をどう扱うかということにかかっている。他者のない世界をどう描くか。ロビンソンは無人島にたどり着くことで次第に他者構造を失う。ある主体は他者の視線を通じて、自分のヴィジョンに捉えることのできない世界のありように眼を向け、ひいては自分の有限性に眼を向けるものと考えられる。他者を失うということは、自分の認識を越えて対象をみる可能的な視線を失うということなので、世界はひどく限定されたものになりかねない。この有限性に自己充足することがナルシシズムの典型だといえる。


しかしトゥルニエ論でのドゥルーズによれば、他者とは認識の枠組みを自分に強いるものでもある。当初、無人島で他者を失うことは、自らの有限性にとらわれた世界に取り残されることであるかのように思われた。しかし、そもそも有限性に向けられる視線もまた、他者を通じた視線でしかない。他者を失うことで、こうした認識の枠組みから開放されていくことに気付く。他者とは可能世界の表現だった。そういった可能世界から解除されはじめた時点でロビンソンと出会うフライデーの存在は、ドゥルーズによれば「他者とは別の」ものだという。このフライデーはやがてロビンソンと一体化しながら、しかしその内側から自己を揺さぶっていくような「他者とは別の」存在だということができると思う。


つまり考えたいのは、可能世界を通じることなしに、しかし同時に単なるナルシシスティックな自己充足に陥ることなく、ナルシシズムを内在的にねじること。例えば、「絵画を再起動する」で『ダークナイト』について話したのは(参照)、バットマンが鏡像としてのジョーカーに向かい合うシーンに半回転が挟まれていることの重要性でした。他者的な理念(「法」をこえた「正義」の理念)に従って行動するバットマンが、その反転である純粋な悪としてのジョーカーと一致していくシーン。これは非常に危ういナルシシズムにギリギリまで触れながら、つまりバットマンとジョーカーがほとんど一体化しながら、しかしそれが完全に一致し静止することなく旋回運動を続ける、そこへ開く回路として半回転が差し挟まれてるんじゃないかということでした(バットマン-ジョーカーがロビンソン-フライデーとなる可能性)。


似たようなことは、同じくノーランによる『メメント』にも見てとれます。基本的には、妻がレイプされて殺される、このトラウマを補うべく犯人に復讐する、というベタに近代的な物語構造を踏襲している。そしてこの物語は近代的な自己の精神構造とも重なっているわけです。しかし『メメント』の面白いところは、そういう近代型の精神構造をもつ物語が、脳の損傷というマテリアルなレベルを通じてバラバラになっていくところでしょう。マテリアルな損傷が近代型の自我を破砕していくと同時に、物語構造そのものをも破砕する。『メメント』はトラウマを通じた自己同一性の確保と自己の破砕との間のテンションで支えられている。『ダークナイト』は、もう一歩危うい地点でナルシシズムに触れようとしているところが良いんじゃないかと。


(そういえば、先日トーキョーワンダーサイト田中翼さんのコンサートに行った時に、面白い高校生だってことで紹介されて話していると、彼がwebで「絵画を再起動する」を読んだとか言っていて、すごく驚いた。こういうことをしてる人。高校生やべえ、ということで盛り上がりました。)


ともあれ、こういう近代型の物語構造(精神構造)とは「別の」物語(存在)の可能性を考えてみたい。それは父性(他者)的なものでない、悪しき「母性のディストピア」(宇野常寛)なんじゃないかとも言われかねないわけですが、まあどっちかといえばアルツハイマー的な方向性をポジティブに考えてみたいのかもしれません。そういう意味で、短編映画集『セプテンバー11』のショーン・ペン作品なども別のところで取り上げたりしていますが、これまた見ようによっては母性への回帰とも思われかねないですね..長くなってきたので、このあたりで切り上げて、また今度続けるかもしれません。