■以前から柄谷行人村上春樹の『風景』」(『終焉をめぐって』所収)はエキサイティングだと思いながら、固有名の議論と「風景」の議論が頭の中でうまく繋がらなかったのだが、先日、友人に送ってもらった『ヒューモアとしての唯物論』所収の「個体の地位」を読んで、ぐっと分かりやすくなった(実際、前者の論文では固有名の議論は端折られ過ぎていて、ちょっと繋がりが見つけにくい)。


デカルト以前における「実在論唯名論」の対立。前者は、「実体は一般的概念としてあり、特殊性はその偶然的な現れに過ぎない」とし、後者は「個物のみが実体として在り、一般性はそこから見いだされる概念にすぎない」とする。要するにこれは「普遍性ー特殊性」という対立に置き換えられる。柄谷氏は、ここでデカルト的コギトのなかに「単独性」なるものを見る。それは「固有名」という要素を通じて、「特殊性」とは明瞭に区別されうるものだ。


これ示すために、柄谷氏はラッセルを経由したクリプキの議論を招喚する(この辺で話がすこしややこしくなるのですね、合せ技だから)。ラッセルによれば「固有名は一連の記述の束に還元されうる」と考える、つまりaikoという固有名は「最高のポップスター」という記述に言い換え可能であるというふうに。しかしこの考え方では、固有名を「特殊性」のなかに解消してしまうだけだ、と。ここで重要になるのが、ラッセル的に「確定記述の束に還元される」固有名でなく、クリプキ的な「他でもあったかもしれないが現実にはこうである」という対象をさししめす固有名である、と。


ここでの固有名とはどういうものか。例えばaikoという存在は、別になんの特殊性も持っていない、どのポップスターとも交換可能な存在である(=可能世界)。にもかかわかず、僕にとってaikoは「他ならぬaiko」でなくてはならない(何言ってんだ僕は?)、と。このような、「可能世界」を経た後に、しかしながら、それがそれとしてしかあり得ないような存在として対象を捉えること、これがクリプキ的な「単独性」。この「可能世界」を踏まえると、ラッセル的な「固有名の確定記述の束への還元」が破綻します。つまり可能世界において「aikoは最高のポップスターではない」とは言えても「最高のポップスターは最高のポップスターではない」とは言えないのです。言い換えれば、固有名はあらゆる可能世界に妥当するが、確定記述はそうならない。特殊性と単独性との差異を示すものとしての固有名。ここにおいて対象(それはもちろん「この私」にもあてはまる)の存在は他なるものに触れつつ、そこからの決定的な切断として現れているのだ。


翻ってデカルトのコギトとは、柄谷氏によれば、「まったく私的であって」「にもかかわらず、それは『普遍性』を要求している」(=可能世界)ものだったのであり、それはほとんどクリプキ的な「単独性」を捉えている、ということになる。この論文の冒頭で柄谷氏が述べているように、特にカルスタ系の言説において、デカルト的主観批判はお決まりのように語られる(たとえばクレーリーとかにも部分的にあてはまる)。しかし、このような言説を前にして、あまりに教科書的に単純化されたデカルト主義を前提に何かものを言う事自体があほらしく思えてしまうことだろう、さもなくば、どうしようもないバカだ。


柄谷氏のスゴいところは(それは僕のような凡人にとって、すごく困ったところでもある)、デカルトのコギトを足掛かりにして思考がどんどん進んでゆき、結局、デカルトの問題に戻ってこないところだ。読者の思考を見知らぬ場所へと引っ張ってゆき、遠くへ連れ去ったまま置き去りにする。元の場所まで戻してくれないのだ、「あとは勝手に考えろ」と。柄谷氏と共に高速でドライブする往路の運動感は何にも代え難いが、しかし、ここで試みたように、その後トボトボと同じ道のりを一人で辿り戻ってゆくのは何とも大変で、自分の無力さを感じるばかりなのだ。