NEW DIRECTION :exp. シンポジウム

NEW DIRECTION :exp.
会場:トーキョーワンダーサイト本郷


■ シンポジウム&講評:
・プログラムA:9月5日(土)17:30−19:30
粟田大輔+池田剛介+千葉雅也+後藤繁雄+木幡和枝+参加アーティスト

今週土曜日、ワンダーサイト本郷での講評+シンポジウムに参加しています。すごくたくさんの人間で話すようにも見えますが、一応最初に参加作家と一緒にそれぞれの作品のまえで話をして、その後、主に粟田、池田、千葉の三人で、8月にSpiralで行ったシンポジウムの延長線上で議論を展開する感じになります。最近は10月の個展に向けて制作に集中してたので、たいして外から情報を入れてなかったのですが、ここしばらくで都内の各ギャラリーの建築展をまわってみたり、買っておいた本に目を通してみたり、風邪をひいてみたりしてました。


これは千葉さんが前回のシンポジウムで言ってたことでもあるんだけど、最近は情報論と生態論とを織り合わせる形で重要な議論が出てきている。例えば濱野智史さんはネット環境を生態系として論じ、ドミニク・チェンさんは情報生態論と銘打って情報環境がどのように人間のaffectとかかわるかを主題とする。一方、カトリーヌ・マラブー再生医療脳損傷の例などをもとに人間を可塑的な(変換可能な)一種のサイボーグのように捉え、千葉さんもドゥルーズマラブーの議論を踏まえながら、セクシュアリティの可塑性を論じたりしている。ざっくり言えば、前者が情報論に重心を置きつつ生態論のほうに開いていく方向性、後者は生態論を基点にしつつ情報論のほうに進む方向性だろうと思う。


より実践的なレベルで言えば、藤村龍至さんの「超線形プロセス」で模型を用いているのは、(先日聞いたシンポジウムでの話では)事務所メンバーのテンションをうまく巻き込みつつ、一つの線形的なプロセスとして展開させていくための方法論(生態→情報)だそうだし、より直接的な形では、名和晃平さんのbeadsなどは動物の剥製を強引にデジタルデータ-pixel化(生態→情報)しようとする試みともいえる。あるいは今回の越後妻有トリエンナーレで一番印象深かった、ピンと伸びたメタリックなロープが放射線状に張り巡らされ、それらが中央で交錯しつつ落下する人間の姿を緩やかに形作るアントニー・ゴームリーのAnother Singularityなんかも、近いところを狙っている気がする。


ベタなところではgooglepagerankは、人間がせっせと(動物的に?)張り巡らせるリンクをbotが巡回することで検索結果に反映させてるわけで、そもそも情報と生態というのは織りあわされていく可能性をもつのでしょう。「データベース的動物」(東浩紀)という言葉をオタクに限らず、より広い文脈で捉えなおすことも可能かも。情報論と生態論の交錯するスペクトルをうまくつくって、そこでの様々な論者や活動の配置をしていくような編集があれば面白いのではないか。

  • -

大して考えもなく書き進めてしまいましたが、さすがにこういう話はしないと思います(笑)。もはや展覧会と離れすぎてますし。どうやら今回はインスタレーション系の若い人たちを集めているそうなので、この辺りの問題設定をメディウムスペシフィックの問い直しと絡めたところでシンポジウムでは考えてみようか、とも。あまりにも大味になりすぎてしまった美術犬シンポジウムでの反省も踏まえ、もうすこしは丁寧に展開したい気持ちもありながら、しかし基本的には突破力のある議論の構築を目指すことになるはずです。


そもそも近代的な主体(subject)は超越論的な規範によって自ら律せられる(be subjected to)ことによって、つまり他律を内面化することで自律していた(カフカなんかはその矛盾を主題化する)。芸術のモダニズムも同様に、他律的な「法」(ジャンルの特性)を受け入れることで自律性を確保する方向性を追求する。そしてドゥルーズによれば、そういった「法」を破壊する時に二つの方向性があり、それがサディズムマゾヒズムだ、と。で、70年代以降、おおよそ美術がサディズム的にアートの「法」をバラバラに解体していく方向に向かってゆき、現在の国際展で観られるような「なんでもあり」な状況に行き着く。


95年以降のマイクロポップ的な作品群は、そういった「法」が解体し尽くされ「なんでもあり」になった寄る辺なさの中で、小さな自己に充足する形で作品の単体性をかろうじて確保しようとする。そこには、ある歴史的な必然があったとも思います。しかしこう考えてみると、モダニズムの戦略とマイクロポップ的な戦略とは、ちょうど反転して重なる。つまり、どちらも、なにか単一の囚われにおいて作品の単位を保とうとする意味では、同じだとも言えるわけです。


とはいえ、なんの囚われもなく「自由」に制作を謳歌しましょうという話ではなく、むしろ今回、千葉さんの議論なんかをふまえながら考えたいのは「囚われの数」ということ。複数のメディウムの持つ、複数の法をある意味でマゾヒスティックに受け入れながら、その複数の法のあいだで作品を強引に変形させていく可能性。前から「翻訳」とかで言ってきたことの展開ですが、そのあたりのトランスメディウムともいえる方向で考えてます。たぶん若い学生のオーディエンスも多いと思うので、もっと砕きながら話を進めるつもりですが。


千葉さんも熱い意気込みを語ってくれています。ぜひ展覧会も含め、足をお運び頂けましたら!