ぼくが志向していることとは全然毛色が違うとはいえ、Chim↑Pomのたとえば『スーパー☆ラット』」や『アイムボカン』なんていう作品は、「コンテクスチュアリズムの環境化」に対して、複数の雑多なコンテクストを衝突させて錯乱させていくような形で応じているとも言えて、面白いと思っています。彼ら自身が明確にステイトメントで示しているように「ドブネズミみたいに美しくありたいカルチャーとジャパニメーションとかギャルだとかのジャパンポップ」といった雑多なコンテクストを「スクランブル交差点」において強引に束ね上げるところに彼らの活動の面白さがある。


それは「コンテクスチュアリズムの環境化」に対して磯崎新が「第三世代美術館」においてコンテクストの過激なまでの徹底化というかたちで答えるのに対して、Chim↑Pomは雑多なコンテクストのそれぞれからタグを拾いだし、複数のコンテクスト間を強引に結びつけるノード(結節点)を予想外の場所にまき散らしていくことで、コンテクストの錯乱状態を生み出す。そういった形で答えようとしているとも言えると思います。「ピカッ」問題は、さらにそれとは別の問題において読まれるべき、というか少なくともぼくは『スーパー☆ラット』」や『アイムボカン』を評価するのと同じようには、『ピカッ』を評価することができない、むしろ別種の読み(ないし迂回)を必要とするのではないかと。決して、一方的に批判しているのではないわけです。


要は、メディウムや物体性みたいなものを作品の最終審級として設定することに、どれくらいの必然性があるのか、かなり疑わしくなってきているのではないかということ。それはコンテクスチュアリズムの環境化が要請する必然的な帰結なのでしょう。すくなくとも現代美術に関わる多くの制作者にとって、絵画を手がけることと彫刻を手がけること、あるいは写真であれアニメであれインスタレーションであれwebであれ、そういったメディウムの選択はかなり曖昧なものになってきているわけで、そういう時に、いやメディウムに回帰しなくちゃいかん,というのは相当反動的な主張になってしまう。むしろそれらは、他の様々な要素と並列に扱いうるメタデータのうちの一つだととりあえず考えてみてもいいんじゃないか。メディウムという最終審級は、むしろいわゆるモダニズム史観が要請する罠なんじゃないか、すくなくとも、一度そこを迂回してみたほうがいい気がいいんじゃないか、と。


ちょっとここまでの感じだと多文化主義vsモダニズム原理主義)という構図になっているわけだけど(大澤真幸の議論みたいでもある..)、まあ、ぼく自身が原理主義的なものへの親和性をもっているからこそ、それに警戒しているという部分もあります。現実的にはモダニスト、あるいはいわゆるモダニズム系批評が美術の世界でもっているプレゼンスなんてもはや限られたものなので、過度に批判的になる必要もないと思っています。とはいえ、ここまで多文化主義あるいは価値基準の弱体化が進んで、価値判断の偶有性が高まると反動的なモダニズム回帰の流れも出てきかねない。


いや、もはや明日は何喋っていいのかぼく自身かなり錯乱状態。書けば書くほど土屋氏と衝突決定って感じがしなくもないけれど、どうなのだろう。ま、いずれにせよ中途半端に日和ることはないと思います、そんなのではわざわざご来場頂いた方に悪いし(つーか全然違う話するかもしれないし)。そもそもboice planningというスペースがどういうところなのかいまいち把握できていないのだけど、駅が橋本ということで、おそらくは多摩美の「磁場」が強いのではないかと、もうこれは俄然、やる気になってしまうわけです!(いや、冗談ですよ..)以前、「美術手帖」座談会で一緒になったインネンの(いや、冗談)田中功起さんはじめ、活躍されている雨宮さん、青山さんなど豪華な布陣で、面白くなりそうです。ぜひ!


http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9638.html