これは「批評の現在シンポジウム」でも強調したいと思いつつ、結局、部分的に言及できただけなんだけど、とりあえずは一度、ある作品を複数のタグ(メタデータ)に分割可能(dividual)なものとして捉えたほうが、新たな作品の見方ができるんじゃないかと。つまり、例えば絵画なら「色彩」「支持体」「平面性」「ブラッシュストローク」「イメージ」..というような形で分割して、それらメタデータの組み合わせにおいてキャラクターとしての作品が成立する、というような大塚英志を通じたキャラクターの議論。このほうが、僕ら以降の世代にとっての認識的なリアリティを形成しやすいのかもしれない。


たしか「批評の現在」第一部の最後で松井勝正さんは「あしたのジョー」に言及して、このマンガが真っ白なページへと燃え尽きる方へと向かっていくことを、マンガという印刷媒体におけるメディウム・スペシフィックな表現の例として出されたように記憶しているのだけれど、ぼくの感じでは、あそこでの議論がそこでオチるのはマズいんじゃないかと思っていた、言わなかったけど。というのは、登壇者間ではメタデータ(確定記述)の同一性/差異という二元論でなく、複数のメタデータの組み合わせとしてキャラクターなり作品なりを考えていく,という基本ヴィジョンはおおよそ共有されていたように思うから。


そもそも支持体であれ、平面性であれ、それらは絵画なら絵画を構成する単に一つのメタデータに過ぎず、恣意的に選択されているに過ぎないんじゃないか(いや、「ベタ」データなんだという反論はあるかもしれないけど、どっちでも同じ)。作品の自律性という時に、そういった規定的条件をあらかじめ設定しそこに向かって純化していく、あるいは自己言及的なループを発生させるということになると、そもそもそれらの条件(支持体、平面性..)こそが他律的、恣意的に与えられているだけではないかという問題がここにあるわけです。


これまで絵画(あるいは作品)は、だいたいにおいて個別の単体(in-dividual 分割不可能なもの)として扱われ、その全体性において一つの作品として捉えられている。たとえば、画家が絵具で色やマチエールを作り、ブラッシュストロークを成しつつ支持体の上におかれる、それらはおよそ「一つの出来事」として見なされがちだし、その出来事の集積において単体としての絵画が捉えられてしまう。このことが、議論をずいぶんと制約しているんじゃないか(ま、そもそもそんな厳密に作品について考えてる人なんていない,って問題はまた別)。もちろん最終的に作品をメタデータの束に完璧に回収することはできないとしても、とりあえず一旦は色彩は「色彩タグ」として取り出して、筆致は「筆致タグ」、支持体は「支持体タグ」としてそれぞれを分割し、その組み合わせにおいてキャラクターとしての作品が成立する、というように考えることができないのだろうかと。


少しだけ言うと、僕の最近の作品はおよそそういった分割可能(dividual)な感じでできていて、まず液体状の樹脂に色をつけて、それから型に流し込んで蝶の羽を成型します。それが固まったあと、様々な色と形でできた蝶の羽をストックしておいて、また別でつくった白いパネルの上に絵画的な筆致のように貼付けていく、という具合。つまり色彩を作る段階と、それを蝶の羽として成型する(筆致を作る)段階、それらの蝶の群れ(筆致群)を平面上で組み合わせていく段階、これらはすべてバラバラに分けられている。


見る側の意識としても、たとえばPhotoshopのレイヤー構造のようにある層を可視化させたり不可視化させたりしながら、「色彩タグ」の層を前に出したり「形態タグ」の層だけを認識したり、あるいは「複数の筆致のパターン」タグが前に出てきたりというように認識を切り分けながら、その複数のレイラーが織り成す編み目(ネットワーク)を読んでいくような形での鑑賞が可能なのかどうなのか、と。たぶんそれは、単にメタデータを分割可能なものとして扱うというよりは、むしろ一度分割した上で、複数のメタデータが織りなすネットワーク状のリンク構造において錯乱させていくような戦略にも近いのではないか、とも思う。


ま、考えてみたくて放置していた問題をざっと書いてみただけなので、つっこみどころは満載ですが、とりあえず。じつはこういう話は、昨日書いた「コンテクスチュアリズムの環境化」問題とも(実はChimPom問題なんかとも)関係しているはずなんだけど、さすがに長いので、たぶんつづきます。