いま、ガチャポンのカプセルでいっぱいの机の上でこれを書いています。スタジオでさっきまで制作していました。これを書いて気分転換がおわったら、またカプセルのインスタレーション制作に戻ります。


http://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html
今週水曜日(12/3)にこういうのがあります。実はこれが結構プレッシャーで...というのも、観客こそ30名程度が定員の小さな集まりなのですが、どういう方が聞きに来るのだか全く予想が出来ない感じなので。それこそ芸大だとか四谷だとかで話すぶんには、おおよその聞き手の層が分かるのですが、今回、出演者の感じがかなりバラけているということもあり、もうこれはどうしたものかと。


とはいえ、タイミング的にはChim↑Pomの広島での「ピカッ」問題などもあり、一方で芸大の先端科では主に90年代以降のアートにおける公共性の問題(パブリックアートや地域系アートプロジェクト、ワークショップなど)も考えてきたし、去年の今頃はクシシュトフ・ヴォディチコの広島でのプロジェクトに関する講演会を芸大で企画したりしてたので、なんとか機会のある時にこういう問題について考えてみたいとおもい、引き受けることにしました。


考えるのはいいけれど、なんせ出演者が多くて、10分でプレゼンをまとめてくれとのこと。これがきつい。ある程度までの共通認識が確保できると予測される場所であれば、いろんな前提をすっ飛ばして要点を10分でというのも可能かもだけれど、出演者の立場もバラバラ(さっきも言った)で、おそらく客層も多様な感じになるとおもうので、ほんとうは相当丁寧に話さないと、何も伝わらない可能性がある。どうしたものか。


何となく考えているのは、たとえば濱野智史さんが「アーキテクチャの生態系」で書かれているような、ネット上での様々なアーキテクチャのありようが可視化されてきた状況をふまえて、美術における(文字通りの)アーキテクチャとしての美術館を考えたいというのがある。というのも、そもそも芸大なんかで90年代以降の地域系アートプロジェクトだとかマルチカルチュラリズムの問題なんかが話題になる上で、主に2000年以降のネット環境、情報環境の広がり、という部分が全く問題になってこなかったという経緯がある。これはべつに芸大だから、とかではなくて、美術の議論においてそういう情報環境の変化が視野に入ってきていない、ということ(メディアアートの分野ではそういったこともすこしは議論されているとおもうけれど、かなり局所的なテクノロジーとか著作権関係の話題になりがち)。美術館が作家やキュレーター、批評家、観客などに作用を及ぼしている、その見えない(環境化した)権力のありようを、ネット環境を通じて可視化されてきた状況を通じていずれ考え直してみたい。

ほぼ唯一、そういった美術館というアーキテクチャの問題を提起していたのは、美術関係者でなくアーキテクト磯崎新だといっていい。「第三世代の美術館」という言い方をつうじて明らかにしていたのは、プレモダン-モダン-ポストモダンの各時代における美術館が抱えている環境の、それぞれ個別のありようだともいえる。問題は、しかしここでの磯崎氏の話はサイトスペシフィック(場の固有性)というところに落ちてしまうわけで、それはひとつの大きな問題提起ではあったけれど、マルチカルチュラリズムにおける多様性問題とか、あるいは建築の議論でいえば2006年InterCommunication「批評の窮状」における文脈主義のキッチュな反復問題とかにもつながりかねない(たしか「site zero/zero site」では磯崎言説の通俗化として説明されてたっけ)。


で、そういうネット環境で実現しているそれぞれのアーキテクチャとそれがもたらす「公共性」のありかたを強引に美術館にアプライしてみると、Youtube型とAmazon型という二つのモデルを考えることが出来るんじゃないか、と。Youtube型はアンデパンダン形式にも近く、どんな作品でもあらゆるものを受け入れて、常時、閲覧可能にしておく。さらにMADのように、作品をつくりかえたり複数の作品を組み替えたりすることも可能。常に新たな作品を受け入れつつ、観客による組み替えが自由に行われていくアナーキズム路線。観客はその混沌状態の中で自分が見たい作品を探し、場合によっては作りかえて自分の作品として展示できる。ワークショップ的な共同制作や地域プロジェクト系の延長線上で考えられる。美術館の公共性における民主主義的な面を強調したのがYoutube型。


他方、Amazon型は主に観客への作品の提示方法に関わる。どんな趣向や人種、思想を持った観客にも、それぞれの好みに応じて展示作品を提示していく。マルチカルチュラリズムにおける多様性を最大限に許容するかたちで展示物を収集し、観客それぞれの好みを踏まえた上でデータベース上から「適切に」作品を提示していく。あえていえば、好みにあわせて聞きたい作品解説を選択できるオーディオガイドの延長線上で考えることもできる。公共性の多様性許容の側面を強調したのがAmazon型。(といっても、そもそもYoutubeAmazon的な側面もあるし、その逆もあるので、ごく大ざっぱな区分に過ぎないのですが、さしあたりの思考実験として。)


なんとなくお気付きの方もいるかとおもいますが、今回やってみたいのは、東浩紀大澤真幸自由を考える」の美術ver.だといえるかもしれません。環境管理が進む状況において人がいかに決定的な(プライベートな?)「出会い」を確保することが出来るかということ。確定記述の束(タグの束)として分割可能な主体にたいしてAmazon的に「適切に」与えられるのではない、かといってyoutube的なアナーキックな空間における常に未決定な作品群のザッピングでもないような、不可解な作品との決定的な「出会い」、in-dividual(分割不可能)な主体として作品と向き合う可能性、といった問題まで踏み込むことができればうれしい。上のYoutube型、Amazon型の区分は、そこまでいくための前提という感じですかね。「公共性の臨界点における公共性」とかいうとエラそうですか、そうですか。


絶賛ネタバレ中ですが、結論部分はさすがにとっておくことにします。全部書くと来てくれた人に悪いし。書いたことをこのまま話すこともないとおもいます。まあ「ネタバレ過ぎたるはネタバレしてないがごとし」とギリシャの哲人も言ってたし(ウソ)、そもそもこういう内容を10分でいろんな前提を説明しながらプレゼンするってことにムリがある(えーと、ここでのアーキテクチャっていうのは…云々)。まあ他の出演者の方々にフルボッコされるかガンムシ決定、という感じかもしれませんが、いやいやそんなことはないはず!ともかくも多様性に満ちた刺激的な場になるのではないかと。恐いものフェチのかたも含め是非どうぞ。


12/23には、東京国立近代美術館でシンポジウムがあるみたいです、って人事みたいだけど。これはこれで大変そうだ..
http://www.artstudium.org/infomation/2008/12/_1223.htm
クリスマスデートにどうぞ!