先日発売された批評誌Review House第二号、広島市現代美術館での「ピカッ」問題に先駆けたかたちで、このアーティストグループについての二つの論考が掲載されていて、かなり「勘がいい」編集だとおもう。木村覚の「彼らは「日本・現代・美術」ではない」がChim↑Pomやその周辺の作家たちを肯定的に捉えるのに対して、松下学の「弱虫のハイジャック--失敗としてのChim↑Pom」が、彼らの最近の活動、そしてそれに追随する形でなされる「批評」にたいして批判的なポジションを表明している点など、バランスもいい。


木村氏の論評はタイトルからも見てとれるように、椹木野衣『日本・現代・美術』のパラダイムにおける会田誠アイロニーのありようと、会田周辺(あらうんど THE 会田誠)に位置づけられるChim↑Pomをはじめとする作家たちの問題意識がいかに異なっているかが論じられる。前半部分の『日本・現代・美術』の論点の整理や、そこでの会田誠の位置づけと『増補 シミュレーショニズム』でのそれとのズレの指摘など、興味深い。しかしそれを踏まえた上でなされる、そういった椹木パラダイムからの逸脱として会田周辺の若手作家を読もうとする論点には疑問を感じる。たとえばよく知られている会田氏による、小学生がかいたポスターをパロディ化するシリーズ<みんなといっしょ>での作家のアイロニカルな態度にたいして、遠藤一郎のクレヨンで富士山を粗雑に描き、赤い文字で「アートをこえろ」と記した<アートをこえろ>には、会田的なアイロニーがない、とする。引用しよう。


「会田と遠藤の違いは、だからこうなる。「スキゾフレニックな日本の私」から芸術家として半身離れつつ、アイロニカルに、その「いろいろ」なあり方をいわばパラノイアティック(ママ)に一貫して描き続ける会田に対し、遠藤は「スキゾフレニック」そのものであり、そんな自分の「生存の様式」それ自体を画中にあらわにしている。会田と同様「みんな」という言葉を遠藤も用いている。とはいえ「みんな」と自分を遠藤は区別しない。

俺達もアートも政治も日本も世界もニートもみんな集まれ俺達おんなじだ。(遠藤一郎)

自分も含めた「みんな」は、遠藤にとって全く「おんなじ」存在なのである。」


会田の「みんなといっしょ」の「と」の部分に着目して、そこに会田のアイロニカルな視線を見るのはいいとして、しかし、遠藤氏が用いる「みんな」は、アイロニカルな視線のない「みんな」、つまり自身と「みんな」との区別のない「みんな」であることを根拠に、遠藤氏を「「スキゾフレニック」そのもの」と位置づけるのには問題があるとおもう。というのは、(たとえそれが統一を欠く「みんな」であるとしても)このような「みんな」と自分との無根拠な同一化は、単なるナルシシズムと何が違うんだ、ということになってしまう。あるいは、「みんな」と自分との併置に論点があるとすれば、別にスキゾフレニックでもなんでもない自分がいるだけだろう(ついでにナルシシズムとの関連でいえば、イヴェントの景気付けとしての色彩が強いとはいえ、同氏は以下のようなことを書かれている。「たいていの表現は、はじめに自らを去勢する。作品を身体から切り離して自律させようとする。それに対して、宇治野やChim↑Pomの作品(パフォーマンス)にはオチンチンがくっついていて、いつもぶらんぶらんしている。すべてを、膨張と萎縮を白日のもとにさらして、脈動し続けている。」
http://the-rotators.com/news/2007/10/ujino_and_the_rotators_vs_chim.html
ようするに、去勢されていないからこそアーティストはスゴいのだ、ということなのだろう。しかしそれは非常に通俗化したアウトサイダーアートへの視線と何が違うのか。)


このような自分と他者との区別のない同一化という論点をふまえた上で(いや、それじたい問題なのだけど..)、Chim↑Pomが他者へと介入していく様を積極的に論じ、他者と自分たちとを併置させていく試みにおける「不可能な他者へと積極的にアクセスしていく無尽蔵な力」を強調していて、そういう強引さにこの集団の面白さがあることを認めた上でいえば、そういうワケの分からない力というよりも、Chim↑Pomの創造力をむしろもっとベタなところに見てみたい気がする。(ここからが本題なのに、寄り道が長すぎた)


ニコニコ動画やブログなどに見られるタグ。個別の単位としての映像や文章に複数のタグがつけられていて、そのタグの共通性において、全く異なる映像や文章へとリンクされてゆき、新たなタグと結びついていく。たとえば、エリイというメンバーから「ギャル」「セレブ」「ヴィトン」「現代美術」といったタグが出てくるとして、そこからリンクされた「セレブ」というタグからリンクしていく中で出てきた「地雷撤去」というタグと、「現代美術」というタグから引っぱった「オークション」というタグとが重ねられるところで<アイムボカン>という作品が出来ていると考えることが出来るかもしれない。「現代美術」タグから「ホワイトキューブ」を、「ギャル」タグから「ゲロ」とりだして接ぎ木すればになる。こういう「タグ的な認識の横滑り」にこそChim↑Pomの創造力はあるのではないか。あるいは<スーパーラット>にしても「現代美術」タグからリンクされた「スーパーフラット」のタグと、「ドブネズミ」から思いがけずリンクされた「ピカチュウ」のタグが「スーパーラット」というさしあたっての単一体としての作品において出会う、そういう複数のタグをもとにした横滑りの作用を強引に束ねてみせているのだと考えることができるかもしれない。


「アートとかロックとかパンクとか
ドブネズミみたいに美しくありたいカルチャーと
ジャパニメーションとかギャルだとかのジャパンポップというか
スーパーフラット」の交差点は
渋谷のスクランブル交差点なのでは
と思い立って(以下省略)」(chim↑pomによるステイトメント)


「アートとかロックとかパンクとか」といった自らの存在を規定するタグからの派生語を「スクランブル交差点」において衝突させること。垂直的な飛躍でなく、水平的な派生を通じたタグの束として作品を立ち上げようとする様は、カンボジアでセレブカルチャーと地雷とオークション的文脈を衝突させる「アイムボカン」のありようとも重なっている。


ドゥルーズは「管理社会について」で、近代国家における個人(individual、分割できないin-dividual)が、管理/監視社会においてdividual(分割可能)なものになるだろうといっているが、このdividualというもののひとつの現れがタグ的な主体理解ということなのだとおもう。東浩紀が強調するキャラクターの問題や「確率的な状態」といった議論もこの延長線上にあるのだろう。Chim↑Pomという集団は、自分たちをdividualな存在として分割するタグの作用、部分部分のモジュールを通じて何かが別のものに横滑りしていく作用を、その創作の源泉としているといえるのではないか。


むろんそのタグ的な横滑りの作用が、作家自身も思いもよらないところに作品を導いてしまうことがあり得る。それが今回の「ピカッ」問題だといえるかもしれない。もう長いので、それについては、また今度考えてみる