たいした説明もなく、晩年の狩野芳崖と、岡本太郎村上隆といった固有名とを結びつけたわけだけど、簡単に言えば、相容れない複数の言語ゲームを、矛盾したまま、その破綻のうちに作品として取り込んでしまうような、歴史の中の鬼子という意味だった。


フランスで抽象やシュルレアリスムの運動と関わりつつモースの民俗学を学ぶ岡本太郎が、そのようなヨーロッパ的伝統とマンガ的表現を同居させてしまったり、東京芸大日本画博士第一号である村上隆にしても、海外からの視線の反映をつうじて、「日本画」的表現とアニメとのハイブリッドで作品化する(うまくまとめすぎて、かならずしもそれが破綻として見えない、ともいえるけど)。その意味で、狩野派的伝統をふまえつつ、維新という歴史の断面においてフェノロサと出会い、その画面に西洋的空間構造を強引に接ぎ木していく様において、先の二人と重なる。


そういう限りでいえば、たぶん「悲母観音」(1888)やボストン美術館の「渓間雄飛図」(1885・ちなみにこれは狩野派+応挙って感じで、好きな作品)なんかより、「仁王捉鬼図」(1886)や「岩石」(1887)「大鷲」(1888)のほうが明らかにキッチュで、先に示したような破綻を分かりやすく示しているように思う。とくに「仁王捉鬼図」は、床に広がるフェルメールばりの格子模様、前後を強調した空間構成上に現われているキャラたちは、輪郭は弱められているものの狩野派的な様式性を強く持ち、鮮やかな色と色とが衝突しあう。仁王に首をつかまれた邪気の目はマンガのように飛び出している。


重ねていえば、たぶんこの作品の方が、最初に言ったような矛盾、あるいは「近代の揺らぎ」を、それこそイラストレーション的に示していると思う。これに比べれば、一見したところ「悲母観音」の色調はおさえられているし、観音と赤子(母と子)の空間的関係も縦長の画面の中で、それほど不自然ではないようにみえる。にもかかわらず、やはり作品としてどこか異様な感じを与えるのは「悲母観音」の方なのだ。今回の展示では、とくにこの作品に込められた作家の固執を示すべく、完成度の高い下絵や、その数年前に制作された、ほとんど同構図でありながら微妙に異なる「観音」(の複製、実物はフリーア美術館蔵)、さらにその「観音」のための下絵までもが乱立していて、どれが「本物のオリジナル」なのやら。という冗談は口ではいえるけど、やはり作品を前にすると、中央に据えられた「悲母観音」が、最後に現われた唯一のオリジナルであることは間違いないという確信を与えられる。数多く描かれる下絵だけれど、それは習作として理想的な観音の様々な形を探っているというよりは、ほとんど同一の輪郭をなぞっている、いってしまえば、その観音の形を愛撫しているのに近い。永瀬恭一氏がここで「パーソナルなオブセッション」と書いているけど、おそらくそれと遠くない意味で、「悲母観音」に刻印された外傷的なものを感じざるをえない。


その画中の像を何度となく撫でる、すなわち数多くの、構図も図像もさほど変化する事のない下絵を反復的に描く行為は、その画面が内包した様々な亀裂、接ぎ木の跡を癒し消し去ろうとする、絶望的な身振りと重なる。その亀裂こそ、まさにフェノロサという外部によって導入されたものであり、いったんは「仁王捉鬼図」のような形で、剥き出しのキッチュとしてあらわれるが、画家は幸か不幸かその矛盾に居直ることができない。その解消不可能な矛盾をどうにか縫合し、破綻のないスムーズな画面の内に隠蔽すべく、右前からの視線で厚みのある形で捉えられた人物像の上には、禁制された色調のうちに、無数の繊細な線が張り巡らされている。西洋的存在性と東洋的流麗さ、その統合と呼ぶにはあまりにも危うい。それは単なるあからさまな、キッチュな破綻でないがゆえに、より一層、観音の姿はその破綻ギリギリの緊張をその身に纏っている。


先の永瀬氏も指摘するように、その後の「日本画」はこのような狩野芳崖の抱えた矛盾を忘れ去るところから始まっている。「悲母観音」はいかなる歴史的モチーフからも遠い、強く「私的」な感情に裏打ちされ描かれた母と子の姿だが、にもかかわらず、後戻りのできない決定性としての「歴史」は、そうした特異点の中にこそ存在していた。こういう類の私性は、始めにあげた岡本にも村上にも見いだす事はむずかしい、むしろ論証抜きにしていえば藤田嗣治につながるような感触だと思うのだけど、それはまたの機会に考えてみたい。


東京藝術大学大学美術館「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」展 今日が最終日でした。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2008/hogai/hogai_ja.htm