フェルメール、マンガとしての

(つづき)一枚の壁面に並べれられた実物大のフェルメール全作品を見て、マンガのページを思うのは無理な連想ではないと思う。この場合、マンガというのは、ひとつの独立したコマが次の画面へと動いていこうとする作用と、分断されたコマとコマとが何らかの記号的要素を通じてつながりを確保する作用、このふたつの重ねあわせの事だとしておく。


フェルメール作品に登場する登場人物(その大半は女性の単身像)は、何かをしている。楽器を弾いていたり、手紙を書いたり読んだり、ミルクを注いだりといった風に。と同時に、しばしば指摘されるが、それらのシーンは写真のように、一瞬を切り取られたような印象を持つ。もちろんそれはカメラオブスクーラから着想を得たとされる画風にも起因しているのだけど、もうひとつには描かれた人物たちのありようも大きく作用している。簡単にいえば、フェルメールの人物たちは何かをしていると同時に、気持ちは別の方をむいているような場合が多い。


東京都美術館に来ていた作品であれば《リュート調弦する女》に顕著なように、女は楽器を扱いつつ、ふと窓側へと目をやって画面の向こう側にある何かに注意を向けているように見える。あるいは《ワイングラスを持つ娘》では、男に迫られる女は、無関心を装うようにこちら側を向き、 《ヴァージナルの前に座る若い女》でも、弾く手を止めてこちらを向いている。≪手紙を書く婦人と召使い≫は、そのような二つの状態が婦人と召使いのそれぞれの行為として振り分けられる。行為と視線とのズレは画面の外へと作品を開いてゆき、そこにある画面を外側から支えるメタ世界を喚起するための徴候となる(《音楽の稽古》などでは、さらに複雑なズラしが導入されている)プルーストの「黄色い壁」はこういうフェルメールの資質を的確に捉えているわけだ。


そういった作用は、作品ひとつひとつと向き合っている時に感じられるわけだけれど、一枚の壁に並べられたフェルメールの作品群をなかめる者は、また別の側面に気付かされることになる。登場人物が来ている黄色い上着、壁に掛けられた絵画や地図、ヴァージナルや赤いタペストリー、左手の窓や手紙というモチーフなど、様々な記号的要素が作品群のいたるところに顔を出している。これらの記号たちは作品と作品に連なりを与え、それぞれの作品がひとつのコマとして見えはじめる。特に手紙なんかが出てくる作品を四つ縦に並べれば、簡単に四コママンガが出来るだろう。記号的要素からなるデータベースを通じて、ひとつの作品は、否応なく他の作品へと開かれていく(そういえばグレーのメイド服なんかもある、萌え要素?)。


一方で中心の人物は、一枚の画面から外側へと向かうベクトルを用意し、他方において、その人物の周辺に散りばめられた記号たちは、画面と画面とを半ば暴力的に結びつけていく。このような二重の作用を通じてフェルメールはマンガとなる。とりあえず、そこまでいけば、17世紀のフェルメールと18世紀の若冲とを結ぶ点が見えてくる。っても、フェルメールプルースト的ー索引的な深奥性(精緻な遠近法)を前提としつつ記号的要素がフラットに均していく感じだけど、若冲にはそもそも徹底してメタ世界(遠近法)が欠けていて、まあそこが面白いところでもあるんだけど。