fly展終了。「デジャヴ」

「fly」展、無事に終了しました。暑い中、予想以上に多くの方々に足を運んで頂き、感謝しています。ありがとうございました。現在、今回の記録を含めたカタログを作成中です。情報はまた後ほどお知らせします。最近は再び、制作のペースを元に戻して、さらに学校も夏休みなので、生活を夜型にかえて、制作に取り組んでいます。

  • -

DVDで「デジャヴ」(トニー・スコット)。とても面白い中盤、ここのエッセンスだけで作品を作ることができないのが商業映画の問題(とくに四日半前の犯人のイメージを片目で追いながら、現実の高速道路を逆走してしまうあたりなんか、笑うしかない)。作品終盤、デンゼル・ワシントンが四日半前に送られた後、一挙にテンションが落ちてしまうのはなぜなのか。


科学的・数学的な整合性についてはわからないから置いておいて、メモなりデンゼル・ワシントンなりが過去に送られて、犯罪を阻止しようとするわけだけど、結局のところ、そのことによって影響をこうむるのはモニター越しの世界においてでしかない。「我々は何も返られない。実際に何も変えちゃいない(デニー博士)」。「この現実」において、起こってしまった爆発や死んでしまった犠牲者が生き返るわけでない。要するに、モニターの向こうの四日半前の世界は、「こうであるかもしれなかった」可能世界のありようを映しているのに過ぎないとも言える。「向こう側の現実」にメモを送り、それが引き金となり相棒を殺してしまったようにも見えるが、いずれにせよ「こちら側の現実」でも一乗客として相棒は死んでいたわけだ(あえていえば、「こちら側の現実」において相棒の死はきちんと確認されてたわけではないから、過去の操作を通じてその死を再強化したとはいえる)。


ここでむしろ確認されるのは、もし仮に「向こう側の現実」が過去でなく現在であったとしても、にもかかわらずそれは、「この現実」との関係において、ひとつのフィクションとしての位置しか持ちえない、ということだろう。フィクション内でいくら展開される物語を操作しようとも、「この現実」において確定された事実を揺さぶることにはならない。「デジャヴ」は、そんなごく当たり前の事実を再提出しているだけともいえる。


最終的にはおおむねそのような構図に回収されてしまうとはいえ、その途中、特にデンゼル・ワシントンが四日半前に戻る前まで、特に過去の映像を見るゴーグルをつけたまま、過去と現実が錯綜しながら犯人を追跡するシーンなどは、圧巻。当初、ほとんど非人称的な視点、客観的なデータとして与えられていた過去の映像は、ポーラ・パットンによって見返される視線を通じて、こちらが見る視線の能動性を補強する。見るー見返される視線の明滅的効果は、ワシントンがカーチェイスの挙げ句、四日半前の犯人のイメージと向かい合うシーンにおいて頂点に達するだろう。このような視線の効果をさらに増強させるのが、現在と過去のイメージとが錯乱的に現れる二つのヴィジョン。デンゼル・ワシントンは「ラリッてる気分だ」というけど、観客もそういった、時間の断絶した(しかし空間的には一致した)複数のヴィジョンのコラージュの波に投げ込まれ、錯乱状態になる。同時に、単なる錯綜だけでなく、要所要所ではその複数のヴィジョンの決定的な一致(犯人との視線の交換)と決定的なズレ(相棒が焼かれるイメージ/痕跡として残る物質)とが、カオティックなコラージュの渦の中に強烈なテンションを作り出している。


しかしデンゼル・ワシントンは、あるいは彼の視線を通じた鑑賞者は、このような、向こうとこちらのイメージの錯乱状態に耐えることができず、単一的な可能世界のほうへと退行してしまう。ごく単純な解決策として、「向こう=あの世」に行ってしまう(ゴダール「地獄ー煉獄ー天国」?)。


この後半三分の一のつまらなさは、カメラの位置の問題とも関わる。四日半前に送られたデンゼル・ワシントンを見る視線はそもそも、彼を過去へと送り出したアダム・ゴールドバーグ(デニー博士)のものであるはずな訳だが、それ以降、彼がモニターを通じてワシントンを見るシーンは一切、描かれない。「こちら側の現実」と「向こう側の現実」とのズレは消去され、破綻のない紋切り型の救出/脱出劇となる。すでに忘れられてしまったかのように、エンディングでも一切、「こちら側の現実」に触れられることがない。言ってしまえば、モニターの向こう側は「あの世」、つまり生者と死者とが反転する世界なのだろう。「この世(こちら側の世界)」で死んだ人物(パットン、相棒、乗客たち)は生き延び、そこで生きている人物(ワシントン、犯人)は死んでしまう。モニターの向こうは結局のところ、「この世」の単純なネガでしかなくなってしまうわけだ。


まあ、この後で変な辻褄合わせをされるよりは、あっさり放り投げてくれてよかったのかも。リンチの場合は、『インランド・エンパイア』がそうであるように、フィクションとメタフィクションとの関係のオールオーバー状態、あるいはデータベース的並列状態(どちらにしても退屈)をつくりだすわけだけど、一方『デジャヴ』は、そのエッセンスにおいては、フィクションとパラ-フィクションとの落差間の引き裂かれを作り出していて、ぼくはどっちかというと後者を好む感じ。