ヒロシマ・プロジェクションへの質問

http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php?itemid=994
昨日書きましたが、中谷礼仁さんブログにてコメントを頂いてます。報告を、応答もかねて。


観客も多いせいか、レクチャー途中からヴォディチコもノッてきた感があり、アーティスティックなオーラが充満(あの講義室には、何かヤバいものが憑いているのかも)。触発されるようにして、日本では考えられないほどたくさんの質問を投げて頂く。その中でも、中谷さんからの質問は「ティファナやワルシャワでのパブリック・プロジェクションでは、作品にどこかユーモアがあるのに対して、ヒロシマでのプロジェクションは、そういうユーモアがなさ過ぎるのではないか。」と、大体こういうような、非常に投げにくい質問を、うまい形で出してもらった。(僕の記憶では、中谷さんはティファナやワルシャワでのプロジェクションでは、「悲しみが喜びに、怒りがユーモアに変わる瞬間がある」というような事を言ってた気がするけれど、さっき記録で聞いた所、その重要な部分がどうやらマイクで拾えていなくて、通訳者の木幡さん、それからヴォディチコに届いていなかったみたい。ごめんなさい。でも質問の趣旨は届いています。)


中谷さんの指摘通り、ある意味、ヒロシマ・プロジェクションはほとんど場所や建物のコンテクストとのズレがない、ちょっとその場のコンテクストにきっちりと定位しすぎている感じがする。ヒロシマの後に作られたティファナやワルシャワでも、同じく人々が個人的な記憶が、悲しみとともに語られたりするわけだけれど、それがどこか笑っちゃうようなヒューモアに反転する瞬間をもつ。他の質問者からは、在日と言う問題や、あるいは日本の戦後責任の問題など、つまり政治的なコンテクストの関心との関連での質問が多い中で、ほとんど唯一、中谷さんは、芸術作品その物としてのクオリティーを問題としていたと思うけど、その真意があの場所で他の人々に伝わっていたかどうかは微妙。ヴォディチコの作品は、あまりにも政治的な文脈と近い所にあるために(アメリカではダグラス・クリンプの立場のような)、どうしてもそれぞれのコンテクストに即した作品理解というのがよぎってしまう。ヒロシマは特に政治的な正しさの中で、納得してしまいかねない(僕は、前のレクチャーではアラン・レネヒロシマ・モナムール」との対応関係の中で、それとは別の可能性を読んだつもりだけど)。


作品がその場の文脈と寄り添い、その政治的な意味合いを補強するだけのであれば、それこそ建築物のライトアップか、良く言ってイルミネーションに過ぎない。むしろその場にある確かな必然性を感じさせつつ、映像の持続の中で瞬間的に場とのズレを際立たせ、そこで立ち上がるヒューモアが空間を活性化させる。そもそもパブリック・プロジェクションが持っている、そのような可能性をクリアに指摘して頂いた質問だったと思う。