顔とカオ、ドキュメンタリー問題から

前の日記で件のドキュメンタリー特集を「ユリイカ10月臨時増刊」と書いてしまったのだけれど、実は「現代思想10月臨時増刊」だった。というのも、装丁の印象からだろうか、完全に思い違いしていて、「ちょっとカルスタ寄りのユリイカなのね」なんて思ってた。僕のイメージでは「現代思想」はツルツルののっぺりした表紙に、のっぺりしたイラストがあって、のっぺりしたテーマが(冗談だけど)タイトルになってる、というもので、それに比べれば今回のはカッコ良く出来すぎてて、「現代思想」のアイデンティティに乏しい。いやむしろ、それを否定しようとしてるのだろうか、左上の「現代思想」のロゴが異様なまでに薄い。K5%くらいではないか。


その中のインタヴューで森達也はドキュメンタリーには「メタファー」が必要だとして、このように言う「例えば、コップを撮って「これはコップだ」と表明することほどバカバカしいことはないわけで、そのコップにいかに意味を込めるかということです」。意図もなく目の前にあるものを撮っていてもダメで、撮られた要素がいかに「メタファー」として機能することが出来るかが重要だ、と。そうなると、ノンフィクションとフィクションとの違いは「ノンフィクションは現実にあるものしか撮れない」という否定的な形で述べられる他ない。


ドキュメンタリーではないけれど、たとえばストローブ=ユイレの「あの彼らの出会い」。いくつかのパートに分かれた場面構成のそれぞれのシーンで、複数の俳優たちがチェーザレパヴェーゼのテクストに沿った台詞の受け渡しみたいなことをする、ものすごく退屈で遅延したこのやり取りが過ぎた後、台詞を失い沈黙した俳優の顔にカメラが、がっしりと据えられる。ここで異様なほどに長く映される顔は、単に顔でしかなくで、先の森達也的に言えば「顔を撮って「これは顔だ」」と表明しているようなものだろう。さらに言えばここで映されている顔は二重の意味で虚構だとも言える、つまりそれがさっきまで台詞を話していた役者の顔であり、さらにそれがスクリーンに映されたイメージであるという意味での二重性。にもかかわらずそれは、強固なマテリアリティをたたえて単なる顔として立ち現れる。そこには「メタファー」も「意味」も、あるいは「表情」すらない、単なる「カオ」としか言いようのない物体が、二重の虚構の膜を突き抜けて、そこに現れる。


言うまでもなく「コップを撮って「これはコップだ」」と表明するのはバカげている。むしろ問われるべきは「これはコップだ」という単なる事実が、しかし問答無用のリアリティをもって立ち現れる瞬間が、いかにして可能か、というその条件だろう。おそらくは森達也がこのインタヴューの中で「普遍性」という言葉で表現しようとしているものは、こういうリアリティに近いんじゃないかと思うんだけれど、ここでは「メタファー」という言葉と「普遍性」という言葉とが一足飛びに結びつけられすぎているように思う。「メタファー」というのはいわば「問答」の水準、つまり観客が個々の要素に意味を読み取り、ひいては全体としての「内容」を把握可能にする、その水準において機能するものだろう。こういうメタフォリカルな仕組みは、例えば西洋絵画のイコノグラフィーなんかで顕著なわけで、それぞれの要素が決まったコードを持っていて(「犬=忠誠」みたいな)、そのコードを把握していれば読み解きが可能ですよ、と。でもそれは、ある特定の文化的コードを共有する人々にとってのみ意味が分かるわけで、つまりそれはなんら「普遍性」を持ち得ない。


ここに所収されているインタヴューの中で松本俊夫は、ドキュメンタリーにおいて「意識の自己完結的な世界を揺さぶること」を重視し、その手段として「意識が予想できない意識の外の継起」を「偶発的に意識の秩序に導入」したという。「意識の自己完結的な世界」、日常の中で自明化し、コード化された意識の有り様を切断し、解体させるためにこそ、その外部を否応なく巻き込んでいくドキュメンタリーの手法を用いた、と。つまり自己の中で固定化された意識とのズレそのものとしての外部を導入するための、ドキュメンタリーの手法だ、と。このような外部性を「普遍性」と呼びうるかどうかは分からないが、先に僕が書いた単なる「カオ」として現れたのは、いわば表情としての意味を持った「顔」からのズレとして立ち上がっていたのだと言いたくなる。


「顔」からのズレそのものとしての「カオ」。このような唯物論的な映像に「普遍性」が宿ると言えるかは分からない。しかし考えてみれば、例えば高橋由一によるリアリズム的切断は、江戸の花鳥画、浮世絵などに見られる徹底してコード化された言葉遊びの体系(今橋理子の仕事を見よ)からの切断、つまり相対的な言語体系内の戯れに対する、普遍的なもの(これはコップだ)の導入だったとも言えるかもしれない。(やっぱり「普遍的」という言葉はフィットしなくて、まあ「特異的」と言う方があってる気はするが。)あえて言えば、相対的な意味の体系を切断するその瞬間においてのみ、語義矛盾を含んだ語としての「瞬間的普遍性(instantaneous universality)」が
確保できる、ということだろうか。しかしそれが「リアリズム」として名指しされ、固定化した認識の中に回収された途端に、ふたたび諸々のイズムのうちの一つとして相対性を構成する諸要素の内の一齣となってしまうのだけれど。