<帝国>的世界

そもそも政治系の文脈に疎い。前々から意識はしてたけれど、最近ネグリを読んだり、パブリック(をめぐる)アートについて考える必要があったりで、特に痛感している。文脈的バックグラウンドを欠いているせいだろうけど、<帝国>とか読んでても、それだけではなかなかクリティカルな読みに発展しない。とはいえ、政治というのは(ある意味芸術と違って)日常の世界と地続きにあるものだから、ベタに時事ネタと関連させて考えることができるのは面白い所ではある。


例えばミャンマー。世界的に批判が集まり経済的な圧力を強めている所だけど、これからどうなっていくのか。僧侶たちの訴えで国際的関心が生まれ、そこに間接的な力を加える。無論、軍事国家体制が良いとは思わないからゆっくり安楽死させられればいいだろうけど、仮にどこかの時点で末期状態の暴走があった場合、国連を通じての軍事的介入の可能性はあるし、アメリカはそれを望んでるだろう。では、そういった場合にも絶対的に介入すべきでないかと言われれば、それも難しい。このような事態はネグリ=ハートが<帝国>と呼んだ権力体制における世界状況を明確に反映している。「介入」は徹底して「人道的に正しい」観点から行われ、紛争地域を民主化へと導くだろう(中東はキビシいが、東南アジアならさほど難しくない)。そうして<帝国>は様々な地域を内部化して、経済圏域を拡大していく。


このような状況を、いわゆる「隠謀論」として、例えばアメリカの意思で様々なコンフリクトが引き起こされているのだというように、超越的な力によって仕組まれているものと見なす向きもあるだろうし、その気持ちも分からなくはない。でも、それは結局の所、現在の<帝国>の機械的な運動を捉え損なうことにもなるだけだろう。すべての内部化を目指す民主主義=資本主義の力学そのものによってそこからこぼれ落ちる外部が見いだされ、さらにその外部を内部化することにより、更なる外部を生み出す、というような自動的な運動状態。しかも、これを批判するのが困難なのは、その資本の運動には、国連に代表される「倫理的な正しさ」がセットとなっていること。このような状況に、個々のマルチチュードが直で抵抗するっても、実際的にはどうなのか。とはいえ、最近は資本主義自体が一枚岩でなくなってきた観もある。イスラム経済の台頭。今後、この辺りも含めて、世界はまたややこしい様相を呈していくことになるのだろう。


11月は京都で狩野永徳展!当然行くでしょう。