内海聖史<色彩に入る>をめぐる_2

美的判断云々の問題に立ち入る前に(そもそも昨日は急いで考えを展開しようとしすぎてる)、内海氏の今回の作品について指摘されうるであろう二つのことばについて考えておきたい。あと、前提として言っておかないといけないのは、僕は前回のレントゲンでの個展にも行ってないし、何年か前のVOCA展MOTアニュアル展でも見た気がするけれど、ほとんど記憶に残ってない。なので、あくまでも三月の資生堂ギャラリーでの展示、しかも手前の部屋の大作をのみ要件として考えを巡らせている。


サイトスペシフィック。これはほとんど論外のように思える。僕の知る限り、この言葉は基本的に、ある作品が場所のコンテクスチュアルな側面と強く結びついている場合、ないし、ある作品がその場の環境と切り離しがたい関係を持っている場合に用いられる言葉なのであって、内海氏の作品がそのような概念によって説明できるとは到底思えない。そこで見て取れるのは単純に、ギャラリー空間の物理的な広がりに基づいた意識であり、場所に関する意味の水準とは何の関係もないし、作品が別の場所では成立しないとも思えない(同様の指摘がここにもあった)。すぐ後で言うように、観客との関係から自立しているとは言えないかもしれないけれど、少なくとも場の意味合い、例えばそこが銀座にあるだとか、ホワイトキューブであるとかいったような意味合いからはかけ離れているし、ジャッドやトニースミスの作品が自立しているという程度には、ギャラリー空間からも自立している(思いきり主観的にいえば、そんなイケてない言葉と結びつける事自体が、まず間違ってる)。


シアトリカル。タイトルからして「色彩に入る」という事であるし、展示自体も(前日の日記で書いたように)キャンバスへ観者の身を近づける動きが、そのまま色彩へ入るかのような体験として感知される。見るものが歩を進め、立ち止まり、また身を引く、その度に刻々と変化する色の渦中に身を任せる事となる。つまり観客の身体の動きを前提として作品が制作されており、(フリードがミニマリズムに対して言ったような批判的な意味合いで)観客に媚びたシアトリカルな作品だ、と。これは、一定の説得性を持っていると思う。現にアーティストによって観者の動きを示唆するかのようなタイトルがつけられているし、現象学的な色彩体験、そこにおける作品と観者との関係性の変化そのものが作品なのだ、と言いたくもなる。そういう意味では、正しくシアトリカルなのだと思う。


ただ、あの作品が、ある種のミニマリズム作品のように、作品と観者との関係性の変化そのものをコアとして(あるいは、そのような効果に還元してゆく形で)成立しているかと言えば、そうではない。ミニマリズムと先のような形で接近しつつ、しかし決定的に異なっている点は、内海氏の作品が、絶対的な「快」の方に向かっているところにある。つまり「日に照らされた木々は美しい」というのとほとんど同レベルの、問答無用な色彩的「快」が作品経験を決定づけ、それによって(ある意味、シアトリカルである事以上に暴力的に)シアトリカルである事をすら忘却させてしまう、こここそが最も重要な点ではないだろうか。


ここまできて、ようやく昨日の問題、芸術をめぐる美的判断を考える事ができる、と思う。(続く)