内海聖史をめぐる_1

こないだ資生堂ギャラリーで見た内海聖史氏の作品体験がジワジワきている。後からジワジワ来るというのは、それが芸術に関する経験であることの条件であるように、たいした根拠もなく、思う。例えば僕らは公園で日の光を浴びた木々の緑を美しいと感じるし、個人的には京都の紅葉の時期、彩度の高い緑と赤との入り交じったカエデを美しいと思う。でも、これらはその場で、ああ美しいと思うだけなのであって、その魅力の根拠が、時間を経た後に現れてくるということはあまりない。


僕は、この日の日記で書いたように、単にこれを見たときに圧倒され、感動させられた。と同時に、おそらくそれがある種の批判に対して無防備なまま開かれているのだろうなあという思いもあった。つまり、これは作品として優れているというより、ここまでのものを作り上げたという作者の努力が涙ぐましいのに過ぎない、というような。


「色彩に入る」展で展示されていた410×922cmの巨大な絵画。作品は高彩度な青系統のドットを一単位にして、それらの密度の高低を基調としたオールオーバーな画面として構成されている。観者のからだを部屋の端まで引いたとしても、その画面を固定された視野の中に納めるのも容易ではなく、そこから前へ進むとまさに「色彩に入る」かのごとき感覚に陥る、そのような効果が意図されているようだ。その色とサイズ、そしてドットの密度変化がもたらすキラキラとした明度の落差とに起因しているのであろう、それを眼前に据えたとき、なにか「自然」のもの、例えば光を浴びた樹木や海といった対象を見ているかのような経験をすることとなる。内海氏の作品に端的に現れる、このような「自然」性をどう見るかによって、その評価が分かれるのではないか。


カントは「判断力批判」の中で美に対する判断を問題とする。あるものが美しいと誰かが言う、それはその人の主観的な趣味判断に過ぎない。しかし重要なのは、「〜が美しい」というとき、それを言った判断者自身が他者の合意を要求する(美しい「だろ?」)ということだ、と。つまりそれは主観的な判断であるにもかかわらず普遍性を要求している。では、どうしたらこのような普遍性が獲得されるのか、その条件としてカントは共通感覚という概念を想定する。光を浴びた樹木や海、あるいは京都の紅葉にせよ、それを「美しい」と感じるのは個々の趣味判断に過ぎない、にもかかわらず、おおむね万人によってそれは美しいものだ、と判断される、なぜならその人々の間に一つの共通感覚があるからだ、と。


内海氏の作品に話を戻せば、もしも仮に、僕が作品に感じた「自然」性によって、それを「美しい」と判断するのであれば、それは単に一面のラベンダー畑や星空を見上げて「美しい」というような、なんとも凡庸な「共通感覚」によって支えられた判断に過ぎす、そもそも芸術を巡る美的判断足り得ないのではないか、という批判が考えられるはずなのだ。(続く)