第一回、ドゥルーズ「感覚の論理」読書会

kosuke_ikeda2006-10-12

上野・芸大にてドゥルーズ「感覚の論理」の読書会。


一章では、ベーコンにおける隔離の問題が語られる。画面中央に現れる形体(figure)は、重ねられる直方体、円形の場、椅子やベッドなどによって隔離され、見るものとの間に隔たりが導入される。それは、形体の持つ「象形的(figurative)」「イラスト的」「物語的」な性格を排するためだ、と。形体の象形性から逃れるための戦略としていくつかの方法がある。一つには純粋抽象を目指し、形体そのものを画面から除く。二つ目は分離抽象や隔離によって、純粋な形体性(figural)へと向かう方法。ここで、figuralとfigurativeとの差異が重要となる(どうやらリオタールの"discourse figure"の中にこの区別が出ているらしいのだけれど、詳しくは分からない)。分かる範囲で言えば、figurative の方には、形象が否応なく孕んでしまう物語性や意味性への含意があり、figuralなものは、形体でありつつ、しかも形象が持つような意味内容を持たない、純粋な形というようなものだ、と。後に、顔と頭部との比較が現れる。どうやら顔はfigurativeなもの、つまり身体をリプレゼンテーションするものであり、頭部は、顔にブラッシングや雑巾がけが加えられた後に現れる、顔の持つような表象的性格を失った後のfiguralなものとして、設定されているように思える(今のとこ)。「千のプラトー」においても願貌性というタームはどちらかというと否定項として語られている。例えばそれは「白人」「男」「大人」「へテロセクシュアル」というようなメジャーな項であり、このような様々な要素に対立する「黒人・黄色人種」「女」「子供」「ホモセクシュアル」というようなマイナーな項が産出される。ドゥルーズは、このようなマイナーなものに「なること」、その運動性を肯定する。しかもそのような運動は、メジャーなものとマイナーなものという二項の二つの点を結ぶような線でなく、点と点とをすり抜けてゆくような、いわばこのような対立そのものを無効化するような運動でなければならない。このような運動の問題と、figuralの問題が、どこかで交錯するのだろうか。


ベーコンは、ポチョムキンの乳母が叫ぶシーンのスチール写真や、マイブリッジの連続写真など、イメージに憑かれた画家であったとも言える。それはヴェラスケスの描いた法王の図版に惹かれつつ、それを反復的に描き出す姿に端的に現れる。差異を生み出す反復。(僕が読んだ限り)書かれていないけれど、いかにもニーチェドゥルーズ的な反復の問題を考えるにあたっての典型となり得るし、しかもそれを端的にイメージの問題と繋げればヴァールブルクの情念定形とも重なるだろう。


二章では宗教絵画、一般的にイコノロジカルに「読解」可能だとされている宗教絵画においても、figurativeでないfiguralな形体が可能であることが示される。それらは完全に典範に基づいた物語として読むことができるからこそ、逆説的にフィギュアの変形、その形体が立ち現れるのだ、と(グレコ「オルガス伯の埋葬」)。上と下とで分かれた絵画、地上では様々な格好をし、それに伴う様々なコードを持った人々が、天上においてそのようなコードを投げ捨て、単なる形象となり神に祝福される(「神と共にいるからこそ、すべてが許されるのである。それは単に道徳的に許されるだけはでなく、(・・・)はるかに重要なやり方で美的に許されているのである。」)。何と言うか、かなり飛躍のある言い方だという気がするけれど、面白いところでもある。


他方、現代絵画には、宗教絵画的なアレゴリカルな文脈が要請されないが故に、形体(figuralな)が容易であるかと言えば、そうではない。むしろそれらは「写真や写真流の紋切り型の表現」によって抱囲されている。真っ白なキャンバスには、すでにあらゆるイメージが取り付いており、それによって、画家がその上に描くものは容易に象形化されてしまう。抽象はそれを回避するための一つの道筋を提示しているが(僕は、ここには全面的には賛成しかねるけれど)、より感覚的な別の道をベーコンは提示しているのだ、と。


次回は2週間後の26日、上野です。



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おまけ

ジオットのキリスト、飛行機凧としての。