さんまのメディウム性

大北千住キャンパスにて「対話する音楽・映像・政治」という企画の一環として行われたライブ(出演:大友良英/ジム・オルーク/秋山徹次/飴屋法水/Sachiko M)へ、ここのキャンパスへははじめて行ったのだが、実は家からものすごく近い。その後、ある人と飲んでいたら、「最近、明石家さんまをうるさいと感じることがある」と言われた。なるほど。僕はあまりさんまをうるさいと思わない、あれだけしゃべりまくるのにも関わらず。逆に、すぐキレるキャラの人とかが番組の中で騒ぎだしたりすると、即、うるさいと思う。声が、その空間の中で発せされる時間の比率(ボールキープ率)から言えば、さんまの方が高いことは明らかだ(番組中でずっとキレ続けるわけにはいかない、一発ギャグを連発するわけにはいかない)。


さんまの特徴を最大限に評価する際に、まずそれはキャラクターがない、ということが挙げられる。例えばその点は、さんまが「踊る!さんま御殿!!」や「恋の空騒ぎ」、「さんま大先生」というような、大勢のゲスト(素人も含む)を前にして、最もその力量を発揮するところに見て取れる。そこでさんまは、いわば単なるメディウムと化して、様々なゲストが持つ細かな差異の間を高速で結びつけ、その空間の中にリズム、運動を生み出してゆく。レヴィ=ストロースの言うブリコラージュのように、ゲストを断片化した道具(一人のゲストから様々なコードを引き出すことにより)として扱い、それを組み合わせつつ新たな話(道具)を生み出し、それをまた解体し、さらに他の話(道具)を生み出し…というように、そこには絶えざる運動、展開予測の困難な運動が立ち上がる。(「さんまのまんま」の一対一の場面では、どうしても素材となる道具(ゲストの持つ特性)が限定されるため、このような運動それ自体を生起させるのは難しく、それ故に、ゲストを家へ招く、お土産を渡す、飲み物を用意する、というトークのフレームの側がやや前景化してしまう。)


このようなさんまの「ゲスト多数型」番組に対して、「めちゃイケ」のナインティナインを対置すれば分かりやすいと思うのだけれど(というか最近の番組に詳しくないから、例が古い)、ナインティナインはキャラクターへの依存度がさんまに比べればはるかに高く、さんま的な要素と要素とをダイナミックに結びつけていくような力が相対的に弱いように思われる。それ故に、番組を保たせるためには、さまざまな別のキャラクターを必要とし(バカ決定戦などは、キャラクター生産そのものの企画化だろう)、それら、他のキャラクターたちとの差異で、場の構造が決定される。ひとりひとりが与えられたキャラクターの枠組みの中で、その記号化された役割に徹することで、比較的安定した、展開予測可能・再生産可能な空間の中で活気のないパス回しが繰り広げられるだろう。ナインティナインの二人は、もはやそのような場における一つのキャラクターでしかあり得ない。


この対置を経た後にしかし、「さんまをうるさく感じることがある」という始めの言葉に戻れば、結構重要な問題、しかも作品制作の場面でのメディウムとスタイルをめぐる困難な問題に接近できる気がするけれど、それはまた時間のあるときに。