モダンパラダイス

竹橋の東京国立近美にてモダンパラダイス展。大原美術館と東近美のコレクションから、いくつかのテーマごとに西洋と日本の画家の作品を対置させる。


セクションは「光あれ」、「まさぐる手、もだえる空間」「心のかたち」「夢かうつつか」「楽園へ」、という「文学的」な5つの名の下に分けられているんだけど、これって要するに
「光あれ」=印象
「まさぐる手、もだえる空間」=抽象表現
「心のかたち」=フォーブ
「夢かうつつか」=シュルレアリスム
なのだろう。まあ、いわゆるクロノロジカルな歴史の枠組みをズラすために、美術史的展開とは違う順番で配置しているのだと思う。作品の配置も凝っていてなかなか面白い。たとえば「心のかたち」セクションに関根正二「信仰の悲しみ」があり、画中の女が固く結んでいる手に対応するかのように、石内都の手の写真があり、さらに向かいには中村彝の、骸骨を両手に携えた自画像が来る。あるいは「まさぐる手、もだえる空間」では李禹煥の、かすれ消えゆく下方向のストロークの作品とリヒターの堅牢な横ストロークが強調された抽象が並ぶ。徹底した美意識(にのみ)によって作られた李の作品と、徹底した無趣味によって制作するリヒター。それぞれのテーマのフレームをユルく設定して、ここでは「抽象表現っぽい」という理由で集められているからこそ、興味深い差異が際立っている。


以上の四つのテーマはまだ分かるのだけれど、最後の「楽園へ」というのはどうなのだろうか。この順番で行くと、光や、空間や、心象や、夢などをめぐって様々な格闘を繰り広げてきたモダニストが最後は楽園へ行き着いて終わるかのように思われかねない。いや、ある意味では非常にアイロニカルな最後とも言えるか。つまり原始的自然の理想としてタヒチを描くゴーギャン印象派的色彩を用いつつ古典的風景を描く土田麦僊のように、いわば楽園とは何処でもない場所として描かれていたに過ぎない、これらをふまえればトーマス・シュトゥルートの撮る屋久島や、東松照明の沖縄にしても、実際に撮っているのにも関わらず、それは何処でもないイメージ化した楽園を撮っているに過ぎない、というアイロニカルな指摘にも見えて来る。であるとすれば、これを超えて、さらにもう一つ、リアリズムのセクションを加えて展覧会をシメて、そこから、もう一度印象派の入り口へ向かう、なんて出来ればなかなかシャレてたのではないかと思うのだけれど。