ストイキツァ「絵画の自意識」から

kosuke_ikeda2006-10-02

グレコが描くトレドの風景、その手前に差し挟まれるトレドの地図。以下引用。

「建築物は同定が困難であるにせよ、すべて実際の場所に位置しているのである。唯一のーーしかし重要なーー例外は別として。すなわち、タブローの中央には、他に比して大きくしかも忠実に再現された建築が、白い雲の上に位置しているのである。(...)この建築物は、細部にわたって描写されており、アルカサルや大聖堂よりも「現実的」である。だがそれは、雲の上に位置しているという点で、より「非現実的」でもある。


 タブローの右隅では、一人の若者が鑑賞者の前でもうひとつのトレド、すなわちその地図表象を広げている。町がその上に移されている羊皮紙片は、タブローが奥行きとともに表彰しているものを、垂直の表面において反復している。」


「この地図の唯一の機能が、画家が景観図で行った破格を訂正することだけであったならば、それはタブローのそばの壁面上やガラスケースの中に置かれることで、タブローの展示的コンテクストの一部をなすことも可能だったはずである。だが実際の状況はこれとは異なる。(...)それは一方で、風景画(景観図)/地図間の対話を起動させ、他方で、遠近法という閉ざされた空間の内部=室内へと地図を吸収するのである。」


「風景画と地図の間にはーーエル・グレコがすでに示していたようにーー連続性は存在しない。地図は、遠くから、非常に遠くから、きわめて遠くから見られた風景ではない。それは観念上のパノラミック・ショットの所産である。したがってそこにあるのは、視覚の対象を遠くに置くことではなく、明らかにレヴェルの断絶なのである。このような理由から、地図は単に「イメージ」の地位に甘んじてはいない。それはイメージとテクストの性格を同時に帯びているのである。あらゆる地図は「読まれる」ために凡例を必要とする。凡例が提供しなければならない最小限の情報とは、地図表象によって遂行された縮小化の度合い、その量を示す数字、すなわち縮尺である。」