公開制作35 松浦寿夫「林と森―筆触の論理学」

府中まで微妙な遠出をして松浦寿夫氏の公開制作+個展「林と森―筆触の論理学」を見、その後、松浦氏と岡崎乾二郎氏とによる対談を聞く。
http://www.art.city.fuchu.tokyo.jp/frame-3.html


単なる予定調和的、「作家に伺う」的な対談の枠を超え、印象派ー象徴派を通じて松浦氏の制作の本質を探る、刺激的な対談だった(とはいえ、美術館の側としては予定調和的な場にしたいのであろう様子が伝わってきて、なんだかなー、という感じでもあった)。とりあえず、日本の美術館でこれほど啓蒙的なイヴェントが成立するということに驚く。


会場で、漱石の『文学論』からの一部が引用されたペーパーが配られ、岡崎氏による解説・プレゼンテーション。ペーパーより引用。

およそ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象または観念の二方面すなわち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものといいうべし。

作品は大文字のF、つまりある固定化した観念(F)のみによって作られるべきでなく、それが情緒と共に形成される時(F+f)にこそ文学足り得る、と。このような小文字のfの効果をさらに前景化させれば、例えばボナールは、誰にも帰されるべき主体なしの単なる感覚の揺らぎ(無数のf)によって絵画(F)を成立させることができたのではないか、ということになる、と。突き詰めて言えば、エリオット的なobjective correlative(客観的相対物)すらも必要とせずに対象を把握する、しかもそれを把握している主体が何処にあるかも同定できないような、純粋知覚(知覚の運動)が可能だ、と。これは明快だと思うし、松浦氏の作品には確かにボナール的な情緒、小文字のfに対して敏感に反応しようとする姿勢が見て取れると思う。


僕が聞く限り、議論がやや曖昧になっていたのは(あるいは僕が理解できなかっただけかもしれないし、松浦氏の作品が主題なので、問題ないのだろうけど)、そのようなボナールに対するセザンヌの位置。僕が思うに、ボナール的にその都度把握された、ある種やんわりとした「情緒」と、セザンヌ(特にサント=ヴィクトワール山に向かうセザンヌ)が把握しようとした、対象を見るところから来る「感覚(サンサシオン)」とは別物であるような気がする。セザンヌは確かに印象派的な移ろいゆく瞬間の印象を捉えようとするが、同時に、移ろってしまう対象が、しかし確固たる統一感を持つのは何故なのかという意識をもっていて、この矛盾を克服するために時間の厚みを一枚の絵画の中に導入することになったのだと思う。ここでセザンヌによってその都度把握された「感覚」はかなり確固とした「焦点的印象(F)」を形成していると言った方がいいのではないか。であるとすれば、セザンヌは「焦点的印象F」を複数化することによって、あの特異的な、時間の厚みと多焦点の凝集された画面を獲得したと言えるかもしれない。つまり、ボナール的な無数の小文字fの移ろいではなく、より即物的なクリアな焦点としての複数の大文字Fの衝突の場を形成した、と。さらにここにモネを加えれば三角形として分かりやすくなると思うのだけど、瞬間的な印象をそのままに画面に反映させようとした(それゆえに、その不可能性、遅延が露呈されるのだが)モネは、理念的には一つの、一瞬の小文字fによって絵画Fを完成させようとしたと言える。再度整理すればボナール:無数のf→F、モネ:瞬間のf→F、セザンヌ:複数のF→Fということになって、比較的きれいな三角対立構造が示せているという感じがするのだけれど、どうなのだろう。


自作のプレゼンテーションの際に、ボナールとセザンヌの画像を用意した松浦氏が、セザンヌとボナールのどちらの、どのような要素に惹かれ、あるいは拒絶するのだろうか、もう少し時間をかけて考えてみたい、少なくとも今回のダイアローグを通じて、そして何より松浦氏の遊びにあふれた展示を通じて、そんなことを考えさせられた。僕としては圧倒的にセザンヌの即物性が作品の「強さ」としてボナールに勝っているし、断固としてセザンヌの方が良い画家だと思うのだけれど、そういう「強さ」だけで作品の価値基準を設定するというのもどうかと思う。っても結局はセザンヌの方が重要だと思うんだけど(こういう風に野蛮に言い切ってしまわないところに松浦氏の芸術的感度の高さがあるのかもしれない)。