信仰のアレゴリー、aikoニューアルバム「彼女」

昼頃、ギャラリーにてボストンから見に来てくれた友人と待ち合わせ、それからメトロポリタン美術館へ。いつもながら13cー18c絵画セクションを見て回る。今日はヴェネツィア派中心にみていたが、フェルメールの「信仰のアレゴリー」の前でいつものように立ち止まってしまう。というのも、僕はこの絵を前にすると、岡崎乾二郎氏の論文「信仰のアレゴリー」(『経験の条件』所収)での議論を想起せずにはいられないからだ。画中画の下方、この絵画それ自体のちょうど中央に据えられた女の視線が、遅れを伴って観者の視線と出会う、そのような出会い自体によって、観者の視線を意識化され、その作用を通じてこの絵自体は、表象するというシステムそのものを表象しているのだ、とする岡崎氏の議論は、スリリングかつ間然とするところがない。いやそれは、実証として隙がないというよりも、論理展開として完璧で、かつ運動性にあふれているのだった。この文章は僕が学部生の頃に初めて読んだ岡崎氏の論文で、フォーマルな分析から出発しつつ、時代的・宗教的コンテクストを織り込みながら、理論的枠組みを精緻に構成してゆく、その複雑さと完成度に唖然とした記憶がある。

そして思うのは、岡崎氏が指摘しているように、作品のリアリティはそれが(例えば上のような形で)交換あるいは翻訳される所にのみ現れる。この絵のリアリティとは、それが絵の中で表象している,という作用そのものの表象として機能している、それを観る者が発見したときに与えられるのだった。しかしながら、僕はこの作品を前にして、何も語る事が出来ず、ただ岡崎氏の論に沿ってのみ、それを眺めるばかりなのだ。いわばそれが一つの「真理」として機能してしまっている。ここでの岡崎氏の教えによれば、しかし、そのような固定化された記述(様式)が変形し、読み替えられる、その運動にのみ作品(作用としての)は姿を現す。僕がこの絵を再び「見る」までにはもう少し時間がかかりそうな気がする。よい作品は何度でも固定化され、そして、また姿を現す、その反復に耐えられるはずなのだ。


書いている時は全く気付かなかったけれど、文化的誤植 注視とはでのアブラモビッチのパフォーマンス評は、この論文と少し重なる所があるのだなあ、と考えていた。


ーー
あと、全然関係ないけれど、aikoのオフィシャルサイトにて、ニューアルバム『彼女』の8/23のリリースが発表された。チマタではファンが驚きの声を挙げているみたいだけれど、僕はこことかこことかで、ニューシングルの後のアルバムリリースを予想していたので、驚くまでもない。ざまあみろ、ダテにヴェネツィア派、見てるわけじゃないぞ、と(いや、関係ないけど)。日本に帰ってからの一番の楽しみになるだろう。明日はギャラリーでちょっとしたサラダパーティーがある。