カタログ雑感

昨日買った、「ヴェネツィア派」展カタログの中から、気になる作品の解説をパラパラ読んでいた。前回のセザンヌ展は圧倒的に良かったが、ものすごく端的に言えば、その素晴らしさはセザンヌ自体の素晴らしさなのであって、展覧会として何か、興味深い視点を提示する、とかそういう類いのものではない。展示での物量と、分厚いカタログに織り込められたいわゆるアカデミズムにおける議論展開の綿密なフォローアップ、これが展覧会を「ナショナルギャラリー」という場所で展示するにふさわしいものにしているのであって、そもそも理論的な読みなんかを期待する方が間違っている。さらに言えば日本であれアメリカであれ、いわゆる実証的な研究者、あるいはイコノロジーの研究者がアカデミズムの権威的な場を構成しているのであって、そういうひとたちからすれば、クラウスだとかボアだとかは、なんだか眉唾ものだ、ということなのだろう。これを矮小化すれば東大での本郷と駒場との関係にそのまま置き換えられるわけだ。


今回の「ヴェネツィア派」展に関してもそれは全く同じなようで、カタログを読んでも、それ自体としてなにかシャープな読みが提示されるというわけでなく、ひたすらアカデミズムでの作品解釈の展開や、その微細な修正などがメインとなっている。でも、そういう研究のなかでも面白いのは、最近いろんなとこでされているけど、赤外線を用いて、制作過程によって消されたイメージを明らかにしてゆく作業だったりする。まあ、そういう実証的な研究から、何かシャープで今日的な認識を引き出すのは他の人間に放り投げられているわけで、僕としては出来る限り、その膨大で「確か」な資料を、全く異なる形で使う事ができればなあ、と思うのだけれど。