試評/伊東深水

kosuke_ikeda2006-06-15

土屋誠一氏による「試評」が更新されている。http://www.pg-web.net/off_the_gallery/tsuchiya/main.html
横を向き卓上の雪柳に見入る女性像における没入の効果、観客の存在を無視するかのように絵画の中に自足した女は、そこへと向かう観客の視線が断念させられるが故に、欲望を反復再生産させる。これと戦争画における象徴的「富士」を見下ろす姿とが繋がる。冴えた展開。


僕であれば、没頭と言わずに、消去の問題としてとらえてみたい。例えば伊東深水による「姿見」という作品。浮世絵における「見返り美人」という主題も想起させるが、どこか違う。こちらを振り返るというよりはしっかりと一点を凝視しているように見える(その意味で、先の「雪柳」とは違うが、代表作「湯気」におけるたらいの水面に目を向ける女の変奏ともいえる)。その視線に導かれ画面左下に目をやると、そこにはちらりと姿見がのぞく。観者は、画中の女が見据える女自身の正面像を決して捉える事が出来ず、その見えない正面像は左端の黒い三角形として(非)表象されつつ、そのイメージは観者へと届けられる事なく消去される。似たような構図は前田青邨の作品にも顕著に見て取れる。このような、視線がイメージを形成しつつ、しかしそれを切断した形で現れる絵画、それは、土屋氏が分析しているような「隔たり」を感じさせると同時に、(言葉にし難いのだけれど)非常に瞬間的な「見えなさ=隔たり」でもある、つまりほんの少しでも視線をずらせば見える筈のものが、にもかかわらず永遠に見えないものとしてのみ現れてしまう。崇高的な場面の目撃ではなく、特に意味もなく自らの視線がここにある、そのような瞬間性を、しかしながら反復的に生産してしまうイメージ(とその消去)、このような二面性が僕の興味のあるところなのだと思う。ここまでいけば土屋氏による<窓望>分析の少し手前だけど、疲れているのでやめにする。


そういえば、「試評」のテキストには名前がない。