青木淳「家の?」、の問題

何日か前の日記で盗作画家について触れたとき、ブログではこういう時事問題を扱いたくないと書いたけど、どうやら比較的自分の身近なところでも、非常に大きな問題となっている事を知った。以下、関連リンク。他にもあるが、きりがないので。


ヤフー  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060608-00000261-kyodo-soci

中日新聞  http://www.chunichi.co.jp/flash/2006060801004045.html

スポニチ  http://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/06/09/08.html

小野弘人さんの今回の裁判に関するブログ  http://armadillon.exblog.jp/

中谷礼仁さんのブログ  http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php


このようなニュースをアメリカにいる僕が簡単に手に入れられる、というのは非常に便利な事だと思う。集められた限りの情報を基にして、この問題に関する僕の態度はほぼ決まっている、だけれども同時に、これが芸術に関わる者にとっての根幹にふれる問題であるが故に、より慎重に事態を見守りたいと思う。何よりも争点となっている絵本そのものを目にしない事には、小野氏が、初めて書店でそれを手に取ったときに感じた「体験したことのない憤り」にリアリティに触れるのは難しいからだ。しかしながら、その「憤り」が「“アルマジロ人間”という文字が活字となって印字されているのを発見」(小野氏、陳述書より)した際に現れるというくだりは、この時の氏の体験の意味を明確に語っているように思う。自分が私的に、子供の頃から大切にしてきたものが、自分の知らぬ間に活字になり、しかも他人の名の下に公開されている。文字化されていない存在は、自分がここでその名を発する、その場で、そして本人と共にしか存在しませんが(それゆえに特権化されるものでもある)、それが文字となり活字として記号化された途端に自分を離れ、自立して(あるいは他人の名と共に)偏在してゆく。芸術に携わる者にとって、このような喪失感を自らの状況と仮定として想像するのは難しい事ではないでしょう。


いずれにせよ、今後の動向を注目してゆく必要のある出来事だと思います。