心構え

現在はウェブマガジンのLog Osaka批評誌LR returnsにて、曲がりなりにも連載という形で書いているわけだが、やはりこういう所で批評として文章を発表するのと、ブログとかでダラダラ書くのとは気持ちからして全然違う。こういう、今書いているような文章には「まあ日記ですから」という暗黙のエクスキューズがあって、ろくでもない思いつきでもなんでもとにかく残しておこう、あるいは一日の終わりに何かを半強制的に記しておく事で、後々何かの思いつきのキッカケになるかもしれない、とかその程度だ。他方で、批評やら学校での発表やらの際には全く違う言葉やその精度が要求されるし、またそのような前提でそれらに取り組んでいる。


ただ一つ気になっているのは、そういうようなキチンとした発表のための「心構え」によって、もしかしたら随分と思考の範囲を狭められている可能性があるという事。それは例えば作品の制作の時でも同じで、最終的な完成度や展示でのヴィジョンなどを想定しつつ、それなりの「心構え」で取り組む際に、僕の意識はできることとできないこととを峻別し、ある限定された枠組みの中で何かまとまったものを作り上げてしまうということも多い。とはいえ、できることとできないこととを判断するのもある種の技術なのであって、それすらもできていない作品も世の中には多い。「できていなさ」が明らかなのに、どうしてそれを発表などできるのか。作品を発表するというあからさまさって、本当に無防備に、どこでなんて言われるか分からない状態に作品を曝す事になるわけで、パーフェクトな状態以外では考えられない。なので、差し当たって有効なのは、キチンとした「心構え」をもって、できる事の範囲をほんの少しづつ広げながら、他方「心構え」を持たずに偶然生まれたものを掴みとる、この二重の戦略をもつことなのではないか、とか何とか「心構え」を持たずに書いてしまった。まあ日記ですから、と。


ってな感じで三十分過ぎたので、終わりにしようと思ったのだがもう少し。かんがえてみれば、僕は勉強会であれ作品プレゼンであれ、質疑の時間というかディスカッションの時間が好きなのだった。「心構え」をもって用意した発表を終えた後、他の誰かの思考によってそれがシャッフルされ、新たな素材が投げ込まれて、それを受けて、また形を持った言葉として投げ返してゆく。例えばサッカーであれば、味方の選手のレヴェルや、あるいは敵のレヴェルによっても、自分ができることは変わってくるはずだ。それはもちろん、日々の訓練によって形成された技術ができる事の範囲を規定を成すわけだけど、例えばパスを受けるフォワードの動きの善し悪しによって瞬間的な判断の決定は自由度を増す。ロナウジーニョがアンリにレアルに来るよう呼びかけているが、この二人が味方同士でフィールドに立つのを考えただけでも、ちょっとヤバすぎる。というかアンリが日本代表にいれば、中村ができることも変わるだろう、とそういうことだ。「杏里」ってことで帰化してほしい、「安里」でもいいし。と、それはいいとして、アンリ+ロナウジーニョ的なヤバさ、自由度の高さをもちつつ、同時にある決定性を持つ、つまりゴールを決める、と。まあそれが未遂性と既遂性の問題ともつながるのだろう。