スナップ写真論から

前川修氏によるド・デューヴのスナップ写真論の翻訳・解説を読んで、ここでのスナップ写真における<表面的系列>と<現実指示的系列>との差異、あるいはベンヤミンの視覚的無意識と、僕が考えていた可能−性の問題とが重ねられそうな部分があった。


マイブリッジ撮影の馬のギャロップにおける「未遂行の運動と不可能な姿勢」、それは見る者にとってイメージとして現れない(あるいは「イメージから逃れ去ってしまったイメージ」としてしか現れない)、にもかかわらず光学的・物体的痕跡として残ってしまっている。このような、見る者に与えられた二つの相反する確信、この未遂性と既遂性の交錯する場所。


これは僕が以前、マティスのプロセス写真で読もうとした事とも繋がると思う。
http://www.eris.ais.ne.jp/%7Efralippo/daily/content/200411080001/index.html
実際の作品が与える複数性への確信と、写真が保証する一枚性への確信、しかしそもそも絵画の複数性を喚起するものもまた、一連の写真群なのだった。


写真のインデックス的側面とは「人差し指で対象を指す」ことであり「世界全体の配置から或る特定の平面を選ぶ」ということだ、と。しかしながら考えてみたいのは、にもかかわらずイメージはそのような物体に抗うということ。イメージの想起とその反復性。<表面的系列>と<現実指示的系列>とのズレが大きくなる際に現れる引き裂かれそのものとしての力動性。同一物の非対称性としてのカントの左手性。