モネの連作

kosuke_ikeda2006-05-10

僕にとってモネという画家はとても微妙な位置にいる。特にアメリカに来て、美術館の常設で沢山のモネ、特にルーアン大聖堂の連作を様々な場所でみるにつけ、その評価はどうも揺らいでしまっていた。この作品はいいが、この作品はよくない、一見おなじような白い画面で荒々しいボサボサとした質感なのだが。


ナショナルギャラリーで見た連作のうちの一枚は非常に良くて、力強い光を浴びた構築物が時間の経過とともに刻々と変化してゆく様子、常にその現在を追いかけようとしつつ、そこから取り残されてしまう遅延があって、そこに辛うじて消えずに残った対称を追いかける線のみが荒いマチエールの中から現れる。他方で、良くない例はボストン美術館にあるヴァリエーションの一つで、ほとんどキャンバス全体が均質なマチエールで覆われ、薄いブルーと白との違いのみで建物がうっすら現れる場合。何というか後者の場合、全体のマチエールに必然性が感じられず、単に「連作を描くモネ」のスタイルとして描いているだけのように見えてしまうのだ。


ほんの思いつきだけど、ここの差異は柄谷行人氏のいうヒューモアとイロニーの差異に近いのではないか。ヒューモアとは自身に対して超越論的な態度を示しつつその不可能性を認めること、対してイロニーは超越論的な態度に居直ることなのだった、そしてそこにある差異は、ヒューモアにおいて見られる、「絶えず」そのような超越論的自己とその不可能性とを行き交う運動性の有無にかかっている。移ろい行く現在に追いつくことは不可能であり、にもかかわらず、それと格闘し続ける時間的集積の中で、モネの一部の作品はその不可能性を辛うじて露呈させている。しかし、それが表象の不可能性に甘んじる「身振り=スタイル」になってしまうとき、そこにある不可能性自体がもはや消え去ってしまう。そのような「身振り=スタイル」性とロマン主義的イロニーとはかなり近いのではないか。