制作雑感

kosuke_ikeda2006-05-06

■実はいま、ちょっとした訳があって、新作の映像作品の制作を中断し、二年前くらい前から始めたホワイトピクチャーシリーズの制作に集中している。特に僕が大学院を修了するあたり、つまり一年半前などは、毎日毎日毎日毎日、取手の作業場にこもって作品として成立するのを待ちながら格闘していた記憶がある。


特に制作をしていて思うのは、まあ、あたりまえの事かもしれないけど、何かこれまでと全然違う作品を生み出すと言うのにはそれなりに時間と労力が必要とされて、しかもその時点では未だ作品として成立していない事は自分でもよく分かる訳だから、そのフラストレーションと言うのはなかなか大変なものなのだ。そこで作家を支えるものは何か得体の知れない確信でしかないわけで、僕の場合なんて、まじで妄想だけど、「あ、セザンヌ超えたかも、」とか本気で思いながら作ったりしていた。誰かと議論しながら作るとか、ある意味では理想的なように思えるけれども、そんな面倒な事、僕には絶対できない気がする、だって作るの自体がものすごい集中力を要請されるのだし。作家であれ研究者であれ、未だ言語化されない核心部分を言語化しないまま保留にしつつ、作品を飛躍させる時間の集積が作品には必要だと思うし、良い作品からは、確かにそれを感じる事ができる。


ただ、そういうのを理想化させ過ぎちゃうと、芸大・美大的な自由主義というか、黙して創るべし、ってことになってしまうのだから難しい所。というわけで、というわけでもないけど、僕としては制作しつつ、たまにはたっぷり時間をかけて文章を書いたり、誰かと議論したり、というのが健全なバランスなんじゃないかなあ,と考えて今に至っている。例えばセザンヌなんか、パリでの修行を終えた後、ある意味でプロヴァンスに籠りきりで続けていて、鉄道ができて物珍しさにみんな旅行しまくってたのを尻目に描きまくってんだから感心してしまう。それに太刀打ちしようと思うのだから、この先、大変だけれども。


写真はメトロポリタンのゼザンヌ。変な作品。