にわかファンのくせに

こないだ友達にaikoについて(一方的に)話していたら、些細な事から、にわかファンだという事がバレてしまった。いや、実は思い切りにわかファンなのですね。とはいえ美術を見まくってきた経験はダテじゃないから一応誰よりもaikoの作品の魅力について分かっている自信がある。なめんなよ,って感じだ。で、そんな僕が圧倒的に評価しているアルバムが『暁のラブレター』(2003)です。この中に収録されている「アンドロメダ」は数あるaiko作品の中で最も重要な作品のうちの一つである事は断言できるが、この曲について以前こういう事を書いた(ちなみに今、僕がこういう事を書いてる隣で、MITの学生が黒板にワケ分かんない数式を書きながらdiscussionしている、もう23時半だってのに)。

アンドロメダ」では、ともかくも目が悪くなるということが執拗に歌われる。「何億光年向こうの星も/肩についた小さなホコリも」すぐに見つける事ができた「自慢」の目がぼやけてくる、他者の「息づかい」や「握り返してくれた手はさらに消えなくなる」のにも関わらず。つまりここでは触覚と視覚との二つの感覚的精度における乖離それ自体、その引き裂かれこそが明確に主題化されているのだ。このような乖離によって自分の統覚が分裂してゆく孤独は次のように、詩的に述べられる「空は暗くなってゆく/今日も終わってしまう/この世の果て来たようにつぶやく『さよなら』」。ここでは視覚の精度が落ちてゆく様子を夕暮れ時に暗くなってゆく情景と重ね、失ってゆく視覚に抗うように、実際に声に出してつぶやいてみせる。この別れの言葉によって自らの視覚と触覚との乖離を指し示すと同時に、聴覚的要素をそれらのちょうど間に即物的なものとして付置する事に成功しているように思う。ここにおいて、ばらばらに引き裂かれてゆく感覚たちが、より明確な位置関係を持って聴くものに立ち現れてくる。と思いきや、歌の最後ではこのように告げられる「この歌よ/誰が聴いてくれる?」と。それまでに示した、三者の感覚の関係性それ自体を疑うように「この歌」が誰かに聴かれる事に関する疑問をすら投げかける。そもそも触覚と視覚とに引き裂かれた感覚は当然、その他の感覚、ここでの聴覚の在り処をも曖昧にせざるを得ないだろう。先に示した「さよなら」という言葉は明確な立ち位置を失い、三者の関係はもはや先述したような聴覚を中心とした位置関係すら持ち得ない、散漫な空間へと放り出されて歌が終えられる。そのような曖昧な空間性が、翻って、視覚の不安と再び繋がってゆく事は言うまでもない「交差点で君が立っていても/もう今は見つけられないかもしれない」。(Nov 15,2005)


というわけで、ここでは身体的な様々な感覚がバラバラに砕けてゆく様が主題化されている事を見て取ったわけだが、実はこの曲を含む名盤『暁のラブレター』全体にわたって、身体の問題が顕在化していて興味深い。でも、とりあえず今日はこのくらいにしておいて、明日かそのうちか分かりませんが、それらのいくつかの例を取り出してみようと思う。なにしろ、こんな事で時間を使うほど暇なわけではないのです(だったら最初からするな,って感じだけど)。