「自由に描け」という背反

■朝からナショナルギャラリー東館へ。こちらでは近現代美術を扱っているのだが、異常な充実ぶりに驚いた。特にポロックを始め、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、クリフォード・スティル、ロバート・マザウェルなどの抽象表現主義をかなり持っている。MOMAに次ぐ充実度なんじゃないかな。エントランス周辺に大きなトニー・スミスの彫刻があるけどI.M. PEIによるこの建築も、トニー・スミスをそのまんま巨大化したような感じでかっこいい(なぜだか最近、画像のアップができないので、写真を貼れないのですが)。その後、ここで開催されている「ダダ」展、その後、西館にて常設、さらにセザンヌ展へ再び、と歩きっぱなしで疲れた。


明日も朝からナショナルギャラリーの残りの常設と、サックラーギャラリーにて北斎展、ハーシュホーンギャラリーにて杉本博司展(森ビルからの巡回みたい)、可能だったらフリーアギャラリーも、ということで明日もクタクタになりそうです。で、ニューヨーク経由で帰る予定。


■例えば寝ている間、いびきとか歯ぎしりとかでうるさい人を起こして、「静かに寝ろ」と言ったとする。ここには大きな矛盾があるだろう、寝ている状態とは自分の身体をコントロールするのが不可能となる時であり、「静かにしろ」と「寝ろ」という二つの命令はある種のダブルバインドを引き起こしてしまうというわけだ。と同時にこの命令は、その発話者にとっても大きな疑問を投げかける、つまり「しかし私は、静かにねているのだろうか」と。睡眠中、僕らは身体をコントロールできないのみならず、自身の意識も失っている。つまり「静かに寝ろ」と命令する者が「静かに寝ている」かどうか、その当人には判断できない。


同様に、というかうまく繋がるかどうか分からないけど、芸大・美大などでよく言われている「自由に描け」というのも「静かに寝ろ」というのと似た不穏さを感じる。「自由に」というのは何に対する囚われをも捨て去って描く,という意味なのだろうけど、「自由に描け」と言われた時点で、その命令が達成される可能性は失われている。なぜならその要求をうけた学生は既に「自由さ」なるものの規定に囚われているからだ。「自由に描く」ためには「自由に描け」という命令を拒否せねばならず、他方、もしもその要求「自由に描け」に答えて自由に描くとしたら、それもまた要求に背く事となる(あ、前の話と繋がりましたかね)。こういうダブルバインドを引き起こす、言い換えれば「自由に描く」ことの不可能性を露呈させる、その限りにおいて「自由主義」は肯定されていいと思う。


でも実際には「自由主義」の人たちは、「自由に描け」と言うのでなく「自由に描きましょう」と言うのであって、要するに「(まあどうでもいいけど)自由に描きましょう」とか「(自由に描いているという気分で)自由に描きましょう」とか言ってるに過ぎないのかもしれない。そういう中途半端な場所では、自由さの不可能性に対する意識化すらも起こりようがなく、単に無意識的に様々な縛りに囚われ続けるに過ぎない。「静かに寝ろ」に引きつければ、「自由に描け」という当人は、自分が「自由に描いている」かどうか判断できるのだろうか。まあそういう人に限って自信を持って「オレは自由に描いているよ」とか言っちゃいそうだから困るんだけど。


■言葉というのは、絵画や建築と同じように、複雑な時空間を作り上げていく。母国語を話していると意識化できないのだが。例えば、始めにThis is a pen.という文章があり、そこにThis is a pen as long as I recognize so.(ここにペンがある、私がそう認識する限りにおいて)と付け足したり、さらには This is a pen as long as I recognize so, even though I don't want to do so. (ここにペンがある、私がそう認識する限りにおいて、私はそうしたくないのにもかかわらず。)みたいに情報の位相をどんどん複雑化させていく事となり、こういう事を僕らは何も意識しないうちにやっている。僕の話す英語はやたらと関係代名詞が多いらしくて、いろんなことを一度に、というか一つの文章に詰め込んで話してしまう傾向にあるみたい。基本的に、ちゃんとした事を話すときは、いまだに頭の中で日本語から翻訳しながら話すので、おそらくは僕の日本語自体がそのような構造になってるのかとおもう。


それはいいとして、作品が作品として成立するためにはThis is a pen. みたいな誰にでも言えるものではダメで、だれも見いだした事のないような組み合わせと構造の複雑さが要求される、でなければ驚くに値しない。あるいは、たとえばクールベのように、あえて「ここにペンそのものがある」と、様々な物を徹底して切り捨ててみせるか。それはおそらく、しかしながら、単なる「もの」で「ある」という次元ではなく、様々なものを切り捨てた後に「もの」に「なる」という、beingではなくbecomingの次元をもつその限りにおいて、作品として成立する。 世界中で最も多くみられるナイーブなイラスト作品のすべてが、単なるイラストで「ある」のみなのであって、元よりあまりにも貧しい。何かが徹底的に消去されたあとの残余としての現れ、単純なものに「なる」という次元とはかけ離れているがゆえに作品と呼べないのだ。さようなら。