■昨日のことだが、ハーヴァードにて『羅生門』(1950)。


何というかこの映画には奇妙な平たさがある。雨宿りをしながら事件の経緯を語り合う男達は、雨の降る羅生門の下、前へも後ろへも行けない。検非違使庁にて行われる盗賊の三船敏郎、殺された侍の妻・京マチ子、さらにはイタコを使って冥界から呼び寄せた侍の霊とが証言を行うシーン、ここでそれらの証言を聴く検非違使の姿は映されず、彼らがスクリーンに正面を向いてそれぞれに異なる経緯をを語る。その後ろでは二人の男が並んで座ってこちらを見ている。ベタだけどラカンの↓を思い出す。そこまで言わないとしても、門はスクリーンのように見える、その平面上で異なる話が展開される。


冗談でラカンの図とか出しちゃったけど、しかし世の中にはこういうラカンの図式を使って延々と同じ事を違う話題で言い続ける人もいるわけで、そんなことやって何が面白いのかね、と疑問に思ってしまう。「私は三界区分の立場をとりますので」とかさ、バカかって感じだよ。