■今回のホイットニーバイエニアルについての原稿をまとめながら、気持ちはワシントンのセザンヌ展へ向かっている。小林秀雄『近代絵画』「セザンヌ」の章をパラパラめくり、この批評家の芸術的感覚の鋭さに驚く。今、こういう類いのシャープさを持った批評家って今、世界的に存在しない、というかこういう感性が通用しないというべきか。絵画は詳しくないとか言いながらなんでこんなに本質をつくような事が言えるのだろうか、と。


「ヴェラスケスの色彩には、華々しいものも、特に効果を狙ったと見えるものもなく、渋いと言っていいほど定着なものだが、画面全体が、豊かな広がりと奥行きをもった、堂々たる和音となって鳴っているようだ。(…)これに比べると、ドラクロアもそうだが、ヴェネチア派の大色彩家達の画面から来るものは、ポリフォニーの魅力のように思えた。」


「瞬時も止まらず移ろい行き消えてゆく印象に、各瞬間毎に、確乎たる統一の感覚が現れるのは何故なのか。彼(セザンヌ)は、相戦い、相矛盾する感覚の群れを、悉く両手のうちに握りしめたかった。」


「プーサンは、忍耐強い頑丈なリアリストであった。彼は色彩派ではなかった。画家が色彩に払う法外な努力を侮蔑していた。というのは、彼の考えによれは、そういう努力は、個人的な好みと結び、個人的な技巧を生み、そういうものには関わりのない、物の普遍的な真実性を覆ってしまうのが普通だからである。(…)絵は見て眼を楽しますというより寧ろ描かれた物が何を語っているかを「正しく読むべきものだ」とさえ言っている。物の本性が見通せるように眼を使う事、物がその本性を語るように引き出す事、それがプーサンの思想であった。彼もまた、自然は表面より深さの方を沢山持っていると考えた、とセザンヌは考えたかったのであろう。」