■大学のライブラリーにいるのだが、ぜんぜん集中できない。何もしないくらいなら、と思い、昨日思いついた「可能−性」の議論の例を一つあげてみる。またか、という感じなのですがaikoに登場してもらいます。『蝶々結び』より。出典はこちら。


この歌の中には「予感」あるいは「可能」にまつわるフレーズがいくつも存在する。それはあからさまにこの短い歌詞の中に何度も登場する「前」という語に集約されているので、抜き出してみよう。「夜がやって来る前に」「闇が訪れる前に」「足を前に踏み出して」「変わらぬ悲しみ嘆く前に」。このようないわば前方性ともいうべき「可能−性」が何度も強調されるのに対し、サビの部分において、この「可能−性」は奇妙なねじれを示しているように思う。


過去にも2人は同じ様に/出逢ったならば恋をしたね
この気持ち言い切れる程あたしは/あなたの事を今日も夢見る


このサビの部分で不思議なのは、よくある仮定法のように、「もしも過去に〜していたら、いま〜になっているだろう」とか、あるいは「もしも今、〜すれば、未来は〜になるだろう」というような凡庸なものとズレているということ。上記部分を紐解いてみれば、「過去にも(…)同じように、出会ったならば…」、つまり現実世界において既に出会って恋をしているのにも関わらず、同様の仮定を過去に対して投げかけていることになる。現実にそうなっているのに、なぜ「出会ったならば」という仮定をしなくてはいけないのだろうか。まず考えられるのは、要するに「いつどこで出会っていたとしても、恋していたのよ。」と、で、それを言い切れるほど好きなのよ、と。ここで、しかしながら気になるのは、そのような過去への仮定に対して、その結果が「〜ならば恋をしたね」と、過去(完了)形で示されている事だ。つまりこの「恋をしたね」というステイトメントは実際に現実世界において「恋をした」という水準で発せられ、にもかかわらず、それを条件づける「出会ったならば」という節は、あくまでも過去に対する仮定なのである。基本的に文法における条件法とは「〜ならば、〜になるだろう」という風に記述され、その条件が働きかける事柄はあくまでも「未遂」の、可能世界に開かれたものであるはずなのだ。しかし、前述のサビ部において、「可能−性」と「既遂−性」という二つの相反する性質が奇妙に織り込まれ、ねじれ曲がって示されている。こういうねじれ、あるいは「可能−性」の機能不全が露呈する場所において、なにかが「できる」ということが捉えられるかもしれないのだけれど。