■何かが「できる」状態を、それとして捉えるのは難しい。例えば英語が「できる」とかよく眼が「みえる」とか。なぜかと言えば、それができる本人は、もうすでにできているのであって、たとえそれがある特殊な訓練の賜物によって上達したものであったとしても、上達以前の状態はできてしまった時点で失われてしまっているからだ。僕は結局オリンピックを全く見なかったけれど、基本的に選手は何かが「できる」人なのだと考えていい。しかし彼らが何かが「できる」ということを確認する舞台はオリンピックのような類いの特殊な場所か、あるいはランナーであれば時間を計るとか、そういう何かしらの基準によってなされる相対化によるしかない。話は戻るが、眼が見えるとかいうのも、実に難しいもので、メガネをつけたりはずしたりすることによってしか、その良さ、悪さを相対化できない。なんで相対化しなくちゃいけないのかと聞かれると困るのだけれど。誰でもあたりまえに何かが「できる」ということ(母国語が読めるとか聞き取れるとか)をふと認識させること、あるいは能力として対象化させることができれば面白い気がする。


「できること」というのは「可能な(possible)」という形容詞の名詞形「可能なこと(possibility)」で、要するに「可能性」ということなのだが、日本語の可能性という語はあまりにも日常的な語なので、「できること」を「可能であるということ」、すなわち「可能-性」という風に置き換えてみた方がいいかもしれない。「可能-性」をめぐって今、ちょっと思いついたことがあるのだが、面倒だし、くだらないし、どうしようかな。


■東京からはるばる送られてきた四谷アートステュディウムのポスターを部屋のオレンジの壁に貼ってみた。貼ってみようと思わせる出来映えですばらしい。癖のある学校なので誰にでもオススメというわけにはいかないかもしれないけど、まあダメなやつはどこに行ってもダメなわけだから、誰にでもオススメしてみていいかな。四谷と言えば日米会話学院もすばらしい学校です、留学前はお世話になりました。この二つ近いんだから何か交流すればいいのになあ。