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■誰かの口癖というのは、他人に二つの形で影響をあたえる、一つはその口癖をだれかにうつすということ。もう一つ重要なのは、他人からその言葉を奪ってしまう、という効果。普段普通に使っているはずの言葉が、他人の口癖として意識されることによって、使えなくなってしまう。同様に、自分の口癖は、その口癖自体をを螺旋的に繰り返しながら増殖させてゆき、同時にその意識化によって抑制する、この二つの力がバランスをとることで、やはり僕らの口癖は増えも減りもしないのかもしれない。何の運動も見えないところに、何かを見ることが出来ればいいのだが。


Someone's stock phrase influences in two ways, on the one hand this infects others with the phrase; on the other hand, more importantly, this tends to wrest the phrase from others. Even the word used usually, others cannot help being aware of that too much, and they end up not using it. Likewise, my own stock phrase spirally multiplies the phrase itself, at the same time, the awareness of it restrains the use of the phrase. Owing to this balance of the two, our stock phrases might not multply and decrease after all. (Anyway, I'm not totally sure if the word, stock phrase, works correctly in this context though...)


■実はまだ昨日の宇多田ヒカルが気になっていて、どうやら単なるパロディによる二重化という問題ではないような気がする。僕の生活している環境で日本語を使う機会はほとんどと言っていいほどなくて、たまに道で日本語が聞こえてくると少しハッとする。日本にいると意識しないけど、ある特定の言語コードを認識するというのはとても高度な技術で、例えばアメリカの道ばたで放たれた日本語はほとんどの人にとって何の意味も成さないノイズに過ぎない、そこから「意味」を読み解くことができるのはほんのわずかな人間だけだ。


例えば、宇多田ヒカルの日本語の唄がどっかのアメリカの公園とかで流れていたとして、その歌詞の意味を理解できるのは日本人だけな訳で、たいていの人は、「ああ、あの手の音楽ね」という風にのみ認識するはずなのだ。日本人ですらポップソングを聴くときに歌詞なんてほとんど見ないに等しいし「ああ、宇多田の曲ね」と認識するのだから、程度としては変わらない。僕もそのように聴いている。ただ、すこし不思議に思ったのは、僕らがものを考える時、作品が持ついろいろな要素(曲調、歌い方、歌詩の内容、アレンジとか)に意識の焦点をあわせて認識するわけで、それを曖昧にすると単なる感想文になってしまう(元気が出る、とか、せつないです、とか、まあ、アマゾンのカスタマーレヴューみたいな)。要するに、作品から受ける印象を超えて何かを語るというのは、その印象をもたらす様々な要素を丁寧に紐解いて、そこにある要素の構造を解体し、あわよくばそこにある様々な要素の複雑な影響関係を掴みとるところにあるのだと思う。ここにおいて宇多田ヒカルの「Keep Tryin'」のサウンドや歌い方の次元と、歌詞にあらわれる意味の次元が乖離している気がして、さらに、今の僕にとっては日本語が頭の中で意味を形成するということが妙に生々しくて、しかもそれが非常にアメリカ的な外観から発せられているということに、拭いようのない違和感が感じられるのだ。