■ハーバードにてゴダール女と男のいる舗道」(1962)。英語では"My Life to Live"で、なんだかそっけなく、邦題の方がよほどキレてる(ちなみに「勝手にしやがれ」(1959)は"Breathless"で、悪くない) 。この映画のラストシーンは有名だが、僕はいつもここで吹き出してしまう。バンバンって撃たれて「ハイ、さようなら」って感じでグイとキャメラが降りてthe end. ある意味で一発ギャグみたいなもののようにも思えるのだけど、毎回思わず笑わされるのには何らかの理由があるはずなのだ。そもそも一発ギャグとは、それが発話される文脈に関係なく、ある一つの独立した言葉(「オッケー牧場!」とか)に、「おもしろギャグ」なる意味合いを与え、さらにそれをある程度多くの人が認める事で成立するのだと思う。つまり、高度な漫才などでみられるような、ある日常的・慣習的な対話構造を突然に脱臼させるような「効果」の水準にあるのではなく、単に「おもしろギャグ」という独立した記号のコードを聞き手が認知できるかどうかで、その価値が決まるものだ(というかそもそもそんなので、笑えるはずない。「面白い」ものが「面白いもの」であるという「意味」の水準で経験されるはずないのだ。その時点で「無意味性」はなくなってしまうのだから。)もう少し詳しく言えば、例えば「オッケー牧場!」であれネプチューンのなんとかという人であれ、確かに、全く何の意味もないところで一発ギャグを放つ事によって、場のコンテクストをズラす効果をある程度生み出しているのかもしれない、しかし、それはあまりにも低い水準、適切な選択のないギャグであるがゆえに、まるで必然性が感じられない(まあでも、ガッツ石松の場合、その選択のなさがまた、このギャグの無意味さにハクをつけてるのかもしれないけど。もっと次元が低くなると、ギター侍の「残念!」とか。)。要するに、それが発せられる完璧な必然性を感じさせつつ、そこから逃れ去ること、ここにしか笑いにおける言語的飛躍はありえないのだ。ゴダールから全然違う方向へ行きましたが、この映画のラストシーンが映像的飛躍として機能する条件は、それまでの展開との関係性の中から必然的に導きだされている、ということを言いたかったのですね。ものすごくあからさまに言えば、それは、12章にわたる映画全体の中で何度となく現れる水平方向のキャメラの振幅運動にある。特に撃たれる手前、二台の車があえて少し離れて停まって、キャメラはこれらの間を彷徨うように右へ左へ行き来する、その運動がしばし持続した後、中央でバンバンと撃たれて、グイとおりる、と。全体にわたって"no,no"と言い続けるキャメラが"Yes!"と頷いて終わり。ちょっとスゴい。