■小説を掲載している作家の一人から『新潮』二月号を送ってもらい(小島信夫大先生からではない、念のため)、青木淳悟「いい子は家で」、福永信「寸劇・明日へのシナリオ」を読む。久しぶりの日本語の小説。


偶然この二つを読んで何かがおかしい事に気づく。注意深く読み比べてみると、各々の小説内に出てくる要素が非常によく似ているのだ。「国道沿いの大型店(ショッピングセンター)」(青木)と「国道沿い(…)のホームセンター」(福永)、「門限の設定はないはずなのに(…)」(青木)と「門限の設定こそ明文化されていなかったが(…)」(福永)、それぞれに見られる両親とその子供、もう一人の他人という人物構成、主人公とその家族が住んでいる一軒家ともう一人の他人が住んでいるマンション/アパートという配置関係の一致。特に気になるのは、主人公が家から出て他者のマンション/アパートへ行き、そこで起こる出来事が各々の小説のちょうど中央に据えられていること。そういえば福永信の作品は青木淳悟の100枚の小説の後ろにピッタリと、コバンザメのようにくっ付いているではないか。いろいろな事を言いたくなってしまうが、他にもワナが仕掛けられている可能性もあるので(もう一つ、あからさまな「仕掛け」もある)、また今度。


青木淳悟の方も、吉田修一ボリス・ヴィアン風味って感じでまあまあ面白い。あるいは『トレイン・スポッティング』とか。