■paint/noteというブログで画家の永瀬恭一氏が横浜トリエンナーレについて詳細な分析をされている。そもそも僕はこれが開催される前に渡米しているので企画について責任もって何か書ける訳ではないのだが、しかし以前の日記(9/24、10/5、12/9)でも何度か触れていて、一応、気になっていることは確かなのだ。12/9の日記で書いたけど、企画に関する言説が全く聞こえてこないのも気になる、ウェブで大雑把にみるかぎり、「展覧会としては?だけど、ここまでもってきた川俣氏はエラい」って感じ。


上述の通り、今回の横トリ自体について何か発言する権利はないので、永瀬氏のテキストに触発されつつ、もう少し一般的な問題について。永瀬氏は、企画側が美術の文脈しか知らない、その外部を知らないからこそ、表層的に外部をかすめとって美術の名のもとに質の低い「観客参加」を要請する事が可能になっている、とされていて、これは横トリに限らず、アートプロジェクトという名の基に行われている全般的な兆候なのではないかと思える。こういう「外部への開かれ」というような文脈がどこから来ているのか整理しておくと、一つにはレオ・スタインバーグが書いた"other criteria(別の価値基準)"(1972)という論文があげられる。ルネサンス以来、そして抽象表現主義に顕著にみられる観者の視線に対する「垂直性」に対してラウシェンバーグシルクスクリーンに見られるように印刷台の上にどんなイメージでもフラットに置いていくような「水平的」な「別の価値基準」がありうるのだ、と。ここでは垂直的に自律した絵画に対して、外部のイメージを雑多に取り込んでゆく水平的な絵画の可能性が語られる事となる。この垂直的/水平的という対立は、今の文脈に引きつければ、そのまま歴史的/社会的という対立に置き換えることができると思う。つまり美術館・ギャラリーという美術史の文脈の中に閉じた空間から抜け出して、より社会に開かれなくてはいかん、と。


永瀬氏は「『作品鑑賞から作品体験へ』という設定が古い。世紀を跨いでくり返された行為の追認でしかない。」と書かれているが、僕は、しかし、たとえ歴史の反復の中にあったとしても、その行為が現在の状況に対して批判的な意味合いを持ちうるのであれば、とりあえず良いのではないかと思う(僕自身がそのような動きに加担したいかは別として)。その意味で永瀬氏とは違うアプローチなのかもしれないが、ここで問題なのは、カッコ付きの「アートプロジェクト」に顕著に見られるような「垂直的・歴史的」なる美術を批判し、「水平的・社会的」に開いてゆくというようなジェスチュアが果たして、今、「有効」に機能するのかどうか、ということなのだ。


以前の日記(2004/11/26)の日記で書いたことでもあるのだが、今や美術館は歴史形成の能力すら失っている、それは日本でもアメリカでも同じこと。美術館がその内に組み入れたものを歴史の中に回収してしまうというのはそもそもある種の美術館批判として言われていたことにもかかわらず(ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」など)、もはやその機能さえ失墜してしまってる。そもそも美術館自体が歴史の中に入らない作品群のゴミ箱として存在する(まさにMOMAにあるラウシェンバーグの「bed」のよう)なかで、「社会性・水平性」に開かれたアートを強調する事が、そもそも言説のレベルにおいても、現状に対して批判的に機能しうるとは思えない。僕は、この手の「アートプロジェクト」における全般的な問題はここにあると思う。であるとすれば、先に永瀬氏が書いていたような「美術の文脈しか知らない」というのではまだ不十分で、美術の現状も文脈も知らない、外部の現状も文脈も知らない人たちが美術に関わる場、それこそが「現代美術」という子供の遊び場なのだ(サーカス?いや、サーカスにはまだ技術がある)。


ちょっとマジメに書いても、下にaikoがあるのが、どうかと思うが。