aikoの最新シングル『スター』を聴いた。


「あたしが射す光のもとへと/強く手を伸ばせるのならば
このままどうか消えないようにと/願いを胸に刻んで」 (強調は引用者による)


『キラキラ』における最大の疑問でもあったのだが(11/15の日記)、aikoはなぜ、第一のサビ部に訳の分からない(→論理的な整合性が弱い)歌詞をつけるのだろうか。というのも、曲の他の部分では極めて論理的に歌詞が構成されているから、なおさらそのように感じてしまうのだ。冒頭、「気まぐれな日々や/つまずく日々に/泣いてばかりだったけど」というフレーズから「震える両手恥じらいながら/そっと包んでくれた」へと繋がる。この第一フレーズの終わりの「けど」は二つのフレーズの意味の連結をスムーズに行う。あるいは第二のサビ部「赤く染まる指先や頬を/生まれ変わっても見ていたい」から「透き通る日も曇り濁った日も/あなたに想いを焦がして」への展開にしても、明確な接続はないものの、要するに<ずっと好きよ>っていう意味のブロックを構成することは明らかだ。いくつかの先行研究(ファンサイトとか!)やインタビューを読んで、おそらく反論の余地のない事実だと思うのだが、aikoは歌詞を先に考え、その後、曲をつけるそうなのだ。ということは、先に述べた「第一のサビ部に訳の分からない歌詞をつける」というのは正しくなくて、なぜ訳の分からない歌詞をサビとして扱うのか、と問わなくてはならない。


では、冒頭に示したサビを紐解いてみると、聴者が躓くのは「あたしが射す光のもとへと/強く手を伸ばせるのならば」と「このままどうか消えないようにと/願いを胸に刻んで」 という部分との接続だろう。なぜなら、「〜ならば」という条件を示す接続詞と共に第一のフレーズが述べられるがゆえに、次のフレーズとの連結の不自然さが際立ってしまうからだ。英語にするとより分かりやすい(というか面白い)のだが”If I can strongly reach out to the light that I radiate, I truly hope the light will be left as it is."という感じになり、前者の条件節が後者に対して整合的に機能していないことが明らかになるだろう。さらにいえば、この二つのフレーズは「〜ならば」という接続詞を用いて繋がれさえしなければ、詩としてはさほど不自然にも感じられないであろうことからも、聴者の疑問は増すばかりだ。例えば「強く手を伸ばすのよ」とか「手を伸ばしてみたわ」とかそういう風に言えば、不自然さはなくなるのだから。しかもこの「〜ならば」の部分はサビの中でも最も強調して歌われており、ここにおいて、(反)効果としての「ならば」という接続詞のみが、その他の歌詞の「意味」を差し置いて立ち現れてくる。これはマティス的な凄さとも繋がる、説明はしませんが。


一度「ロッキングオン・ジャパン」とかでaikoにインタヴューさせてほしいなあ。くだらないライターよりも絶対面白いものにする自信があるんだけど。例によって、出典はhttp://pinkheart.jp/i/star.html。年末のテレビでaikoをみたら、ぜひ、この「ならば」に注目してください。あと、以下のページのMOVIEをクリックすると、「ならば」部分の視聴ができます。http://aiko.can-d.com/disc.shtml。『キラキラ』もあわせてどうぞ(なんとなく「ロッキングオン・ジャパン」って書いたけど、思い出してみたらこの雑誌って「女・子供が好むようなポップソングはいかん」っていうようなマッチョなポリシーがある雑誌だった。たぶんaikoとかは×なんじゃないかな、どうでもいいけど)。