■美術批評誌"LR Returns"用に、ずいぶん前に見たトーマス・ヒルシュホーンに関する文章をかいている。再び締め切りが。締め切りというのは「〆切り」でもあるわけで、どこか不穏な空気が漂う。英語ではdeadline。「〆」であれ「dead」であれ、締め切りは本当に殺す(はい、それまでよ、と区切る)所にではなく、いわばその日まである特定の行為を蓄積させ、成果のアウトプットを遅延させる所にポイントがあると思う。たしかにそれは具体的な相対物、時間を区切る点としてなくてはならないのだが、同時にそれは最終的なゴールが見えない中で、差し当たっての結果を積層化させるためのものでもある。


例えば、僕らは目覚まし時計を起きたい目標の15分前に設定したりする。時計が鳴るのは15分前で、そこからが心地よい起き方をめぐっての目覚まし時計との格闘なのだ。本当に目を覚ましたのなら目覚ましを切れば良いだけなのに、ベッドの中でsnoozeボタンを押したりして、また五分後に鳴るようにしたり。なぜか。重要なのはここで引き延ばされた15分間だからだ。僕らは寝ている状態を「夢見心地」で楽しむことはできない、なぜなら寝ているから。僕らが真に眠りを楽しむことができるのはこの15分間、寝ていることと起きることとの反復の間で格闘する、目覚めることを遅延した時間のみなのだ。


締め切りとはすなわち、ここでいう「目標の15分前」にあたり、決して目標の時間そのものであってはならない。でなくては僕らは文章を推敲し美しく整えてゆく、ものを書く最大の喜びというものが味わえないからだ。ってことは、早く書けってことなんですが、この「15分前」をどこで設定するのかが難しいのかもしれない。


しかし、ふと思ったけど、僕らがさらに「眠りを夢見心地に」楽しむことができるのは、起きなくては行けない時間を過ぎてもなお、目覚まし時計と格闘している状態と言えるかもしれない。ここでこそ起きることの義務感と眠りへの欲望の明滅はピークに達し、その狭間で至福の「夢見心地」を経験するだろう。とすれば締め切りとはやはり、それを過ぎてからがものを書く上での至福の時だということに。締め切りの手前で遅延された時間、それを過ぎてもなお引き延ばされる時間。いや、ちゃんと僕は締め切り守りますが。