侯孝賢の「珈琲時光」(2003)をボストン美術館にて。


若いライターを一青窈、彼女と仲の良い古本屋店主を浅野忠信が。冒頭、一青窈が台湾の旅行から帰ったばかりであることが浅野忠信との携帯電話による会話、大家にお土産を渡すシーンによって、実に正確に、説明しすぎる事なく伝える。ここで一青窈が「変な夢の話」をすることから、もしかしたら「不思議ちゃん」的なうっとうしいキャラクター設定があるのかな、とも一瞬恐れるが、そのような愚行をこの経験豊かな監督が侵すはずもない(ちなみにこのようなうっとうしい愚行を全面的にやっているのが庵野秀明の「式日」(2000)なのだが)。


その後、高崎の実家に帰った一青窈は実にあっさりと、台湾にいるボーイフレンドの子供を身ごもっていることを告白する。いや、それは告白というほどのある種の決意と共に発せられる行為ではなく、何のきっかけもなく唐突になされ、ここで初めて観客もまたこの事実を知る。私たちはその告白の内容自体に、というよりも、それがなされた唐突さに驚かざるを得ない。映画においてこのような、特定の登場人物と観客との間でのみ共有された「秘密」(特にそれが映画の序盤で為されたのであればなおさらだが)はしばしば、物語を駆動させる装置となるのだが、ここではそうならない。さらにこの事実がもう一度、一青窈の口から「告白」されるのは後半近く、浅野と二人でお茶の水駅付近を歩いている時だ。歩道にて気分が悪くなりうずくまる一青窈浅野忠信が「大丈夫?」とか聞くと、「妊娠してるから」と、またもやあっさりカミングアウト。同じ秘密の開示に二度も驚くことはまずないのだが、しかし、それがなされた唐突さに再び躓かされる。


この二人の主人公は、それぞれに何かを集めている。浅野忠信は電車の音を、一青窈は台湾出身の作曲家・江文也の情報を。浅野忠信は、その集められた情報が持つ意味、あるいは価値を知りながら集めている訳ではない、単に集めているだけ。そのことは、二人が彼の書いたコンピューター上の絵を見ながら(とんでもなく、ひどい絵)、「何か事件があった時に、集めた音が役に立つかもね」というようなことを、どちらかが言い、二人で笑いあう場面に逆説的に示されている。何かの役に立つことなど起こるはずもない、それは浅野自身がよく知っているのだ。理由もなく、そしてさほどの情熱もなく(そう、彼はなんとなくそれらを集めているように見える)何かを求めている。他方、一青窈はというと、彼女自身が台湾で生まれ日本で育ったゆえに、江文也の情報を集めることがある種の「アイデンティティ探し」になっているとも言えなくもない。特にこの情報収集の一環として、江文也の奥さんに会いに行き、古い写真を見ながら会話するシーン。ここで登場する「江文也の奥さん」が、実物なのかどうかは知らないが、いずれにせよ会話する二人を捉えたショットは、映画の底が抜けたように素朴(言うまでもなく計算され尽くした「素朴」さだ)、それ故にこのシーンがあまりにも生々しく際立つのだ。写真家の古い写真と共に与えられるこのシーンは、映画という虚構と、私たちがここで映画を見ている現実とを結びつける蝶番となる、しかし、そのことによってこの映画を「現実的」などというのもバカげている。のですが、この辺で僕も「唐突」に、考えるのをひとまず止めます。



■美術批評誌LRリターンズ05号に連載『ここで、ものを、みるということ。(1)「ANOTHER EXPO」展、遅ればせながらの返信として』が掲載されています。何を書いたかはっきりとは覚えていませんが、ニューヨークで開催されていた渡辺真也氏企画の「Another Expo--もう一つの万博」展について、かなりひどく批判を書いたのではないかと。そのうち僕のホームページににもアップできるかとおもいます。毎回、何かを対象にした批評であると同時に、それが年4回の連載を通じて「ここで、ものを、みること」に関する考察になればいいなとは思いますが、例によって、どうなるか全くプランはありません。ちなみにこの前のlogの「文化的誤植を注視せよ!−−場所とは」では、「ここで、ものを、みないということ」について少し考えてみたのですが。月末あたりまでにlogの新しい原稿をまとめるべくボストンのICAで開催されているトーマス・ヒルシュホルン(Thomas Hirschhorn)の個展についてごちゃごちゃ考えはじめているところです。と言いつつ、aikoについて書いたりする可能性も…