■偽日記というウェブ日記で画家の古谷利裕氏が金原ひとみ蛇にピアス」について書いている。そういえば僕がこの小説についてデイリーコメンタリーに金原ひとみ「ヘビにピアス」 文藝春秋 2004年3月号よりを書いた時に思ったのも、その紋切り型の表現、そこから連想される中原昌也の存在だった。


古谷氏は日記の中でさらに詳細に、このような紋切り型の表現が持つ小説内の効果を分析され、その後、「何故小説は、自らをそんなにも性急に『小説として』回収してしまおうとするのだろうか」という疑問を書かれており、それは普段僕が小説を読む際に感じている事でもある。そして現在このような疑問に対して小説家として本格的に取り組んでいる日本人は阿部和重福永信に限られるのではないかと思う。阿部和重はすでにエラいので置いておいて、福永信阿部和重のもつような実験性のエッセンスのみを抽出して「小説にならざる小説」、あるいは「小説それ自体でしかない小説」を構成しようとしていて、それゆえに、さしあたりお話としても読める阿部和重よりも理解されづらいのかもしれない。細かく書くのは面倒なのでやめますが、先のデイリーコメンタリーに僕が書いた「コップとコッペパンとペン」、「五郎の読み聞かせの会」という二つの短編に関するコメンタリーがありますので興味のある方は。


ただしこの人の場合、「お話」に回収されてしまう事に対する疑問、小説という形式に対する問題設定がやや作為的に現れすぎており小説自体としてどれほど楽しめるのかと言えば疑問が残らなくもないし、それはあからさまにいえば作家の「力量」に関わる。福永という人は(これも作為的なのかどうなのかは知らないが)とにかく「力量」を見せないので小説に引っ張られる感じが全くなく、でもまあ、それゆえに小説のフレームをめぐる問題設定がクリアに見えてきているとも言えるのだ。美術の文脈で言えばステラのブラックペインティングみたいなものかもしれない。"What you see is what you see."と言ったステラ。これに引きつければ福永氏もまた「あなたが読んでいる文章は、あなたが読んでいる文章でしかない」という事をクールにつぶやいてみせる作家なのだ。


あと、福永氏は美術に関する記事を書いたりもしているが、美術作品に関する判断力は皆無だと言っていいと僕は思う。