kosuke_ikeda2005-12-03

■仕上げなくてはいけない原稿があるのに進まない。ヤケクソで今気づいた事を書く。この前の日記でaikoの「アンドロメダ」について書いたが、このCDのジャケット写真をウェブで見て、やはりこの分析が正しかったのではないかと思えた。

宮川淳は「鏡・空間・イマージュ」のなかで、鏡に対峙した主体が自身の主体性を失っていく、というよりも自身から乖離してゆく感覚を捉えている。つまりこういうこと、主体というのは自分に向かって発話する他者の存在があってこそ成立する(バンヴェニスト記号論を根拠にして)のにも関わらず、鏡に向かう主体は自身のイメージに魅惑されつづけるかゆえに、そのような他者を獲得し得ない、つまり私は私のイメージに深く捕われつつ、決定的にその主体を失ってゆくという乖離こそが現れるのだ、と。映り込む自身のイメージに対峙し、何かを語りかけるようですらあるaikoは、自身の像に魅惑され、と同時に自己を永遠に失い続ける。シンメトリカルに配された実体とイメージは、それらの接合と切断とを正確に示す。歌自体はこれよりもさらに複雑に主体の統覚の乖離を扱っているのは以前に述べた通り。ほんと、こんなこと書いてるヒマないんだけどなあ。