■編集部の許可を頂いて「LRリターンズ」に書いた連載『ここで、ものを、みるということ。(1)「ANOTHER EXPO」展、遅ればせながらの返信として』をアップしておきます。この雑誌のホームページにも紙面の画像があり、立ち読みできるようになってます。


■あるきっかけから「表象文化論」学会に関して簡単なコメントをよせているブログをみつけた。学会の「開会の言葉」みたいなところで外国語の必要性が語られたのだそうだ。そのような発言をやや嘲笑的に書いてある。述べられた文脈や雰囲気がつかめないし、そもそもブログでのみ読んだ情報をベースにして何かを考えるつもりもない。しかし、少し頭をよぎったのは、こういう事だ。つまり、僕がその場でこのような発言を聴いたとして、はたしてそれを笑えるだろうか、と。確かに東大の学会(正確には準備大会)のオープニングで、外国語を学びましょう、はないだろうという気もする。しかし他方で、こっちにきて様々な形で日本人に接したり日本の事を他国の人と話したりするにつけ、やはりどうしようもなく、日本の知的な分野における外国語の欠如を感じざるを得ないのだ。いや、そのように感じるという事がいかに凡庸な認識であるかは分かるし、そもそも留学してようやく英語でコミュニケーションが成立するかどうかというような語学力しかない僕がこのような事をいうのがどれほどバカげたことかも同様だ。しかし同時に、そのようにあまりに凡庸で恥ずかしくすらある事を、あえて言わざるを得ないんじゃないか、というのも強く感じるのだ。言い換えれば、先の発言を笑い飛ばせるのは、すでに最低限の語学力が備わっている者のみなのであって、そのような資格のある人間がどれほどいるのかと思うと、自分の事も含めて悲しくなってしまう。そして「外国語の必要性」を、それこそ素直に、痛切に感じる事も出来ない人間には、まったくもって国際的な感覚が欠如しているという事もまた確かなのだ。さっきも言ったように、こういうことを主張するのがいかにカッコ悪いのかはよく分かるのだが、そんなこと言ってられないくらい事態は本当に深刻だとも思う。