■実はaikoが結構気になる。


アンドロメダ」では、ともかくも目が悪くなるということが執拗に歌われる。「何億光年向こうの星も/肩についた小さなホコリも」すぐに見つける事ができた「自慢」の目がぼやけてくる、他者の「息づかい」や「握り返してくれた手はさらに消えなくなる」のにも関わらず。つまりここでは触覚と視覚との二つの感覚的精度における乖離それ自体、その引き裂かれこそが明確に主題化されているのだ。このような乖離によって自分の統覚が分裂してゆく孤独は次のように、詩的に述べられる「空は暗くなってゆく/今日も終わってしまう/この世の果て来たようにつぶやく『さよなら』」。ここでは視覚の精度が落ちてゆく様子を夕暮れ時に暗くなってゆく情景と重ね、失ってゆく視覚に抗うように、実際に声に出してつぶやいてみせる。この別れの言葉によって自らの視覚と触覚との乖離を指し示すと同時に、聴覚的要素をそれらのちょうど間に即物的なものとして付置する事に成功しているように思う。ここにおいて、ばらばらに引き裂かれてゆく感覚たちが、より明確な位置関係を持って聴くものに立ち現れてくる。と思いきや、歌の最後ではこのように告げられる「この歌よ/誰が聴いてくれる?」と。それまでに示した、三者の感覚の関係性それ自体を疑うように「この歌」が誰かに聴かれる事に関する疑問をすら投げかける。そもそも触覚と視覚とに引き裂かれた感覚は当然、その他の感覚、ここでの聴覚の在り処をも曖昧にせざるを得ないだろう。先に示した「さよなら」という言葉は明確な立ち位置を失い、三者の関係はもはや先述したような聴覚を中心とした位置関係すら持ち得ない、散漫な空間へと放り出されて歌が終えられる。そのような曖昧な空間性が、翻って、視覚の不安と再び繋がってゆく事は言うまでもない「交差点で君が立っていても/もう今は見つけられないかもしれない」。


これと似た、しかしおおむね逆方向からのアプローチをしているのが「キラキラ」。「羽がはえたことも/深爪したことも/シルバーリングが黒くなった事も/帰ってきたら話すね」というフレーズ。この部分がどうも意味が分からないと思わせる理由は「羽がはえ」るという非現実的な事象と「深爪した」という現実的な事象、そして「シルバーリングが黒くな」るという、いわばその二者の間にあるような(非)現実的な事象とが「帰ってきたら話す」という一つの地平に無理矢理収められていることによる。つまり、「アンドロメダ」では複数の感覚の引き裂かれが歌われていたのだとしたら、「キラキラ」では複数のレベルにある事象が一つの行為によってシュルレアリスティックに統合されようとする事による不安が現れているのだ。しかもそのようなフレーズの後「その前にこの世がなくなっちゃってたら/風になってでもあなたを待ってる」と。言うまでもなく、「この世がなくな」っている状況で、もはや「話す」相手の存在がなくなっていないことは考えづらい、にもかかわらず、対象を失った「待つ」という行為は自動化・永遠化され「風になってでもあなたを待ってる」ということになる(火の鳥「未来編」のマサトのよう)。このような目的を失った自己完結性は意外と本家シュルレアリスムにおける一つのテーマだったりするんじゃないか。いや、こんなことをポップなメロディーにのせてCMとかで流してしまう、それ自体が十分にシュールだよ。というわけでaikoはあなどれないと思う。


ここに、全曲歌詞紹介があります。出典です。http://pinkheart.jp/i/words.html