■週末の3日間、ニューヨークへ。七夜連続17時から24時まで行われているアブラモビッチのパフォーマンスをキュレーターの渡辺真也と共に観る。特に今日みたヨゼフ・ボイスの再演はいろんな意味で興味深かった。近いうちに何らかの媒体で書くつもりなので、ここではメモを。


グッゲンハイムの一階の中央部におおよそ直径7m、高さ1.5mほどの円筒形の舞台がつくられ、それを使って連夜のパフォーマンス。観客はそれを取囲むように散らばり、もちろん二階、三階から見下ろす者も多い。実際に七時間のすべてを連日観ている観客はほとんどいないと思うが(だれがそんなこと出来るというのか!)、僕は一つの公演あたり1.5時間から2時間くらい観ていた。誤解を恐れずにいえば、そもそもこれらのパフォーマンス自体が、観客がすべてをみることを必要とするような類いのものではない、それが反復的持続によって成り立っていることは明白で、その一部分を観た観客はおおむね全体を想像する事が出来るというようなものだ。


舞台上には複数の黒板が立てられ、中央の椅子にはアブラモビッチが座る。顔は金色のアルミ箔のようなもので覆われ、左腕には死んだウサギが抱えられている。右腕は頭のあたりに掲げられ、人差し指を上に延ばした姿はイコン(聖画)のようにも見える。時に、椅子をおり死んだウサギにささやきかけながら舞台上を歩き回る、その際、靴底につけられた大きな金属片が硬い音を響かせる。おそらく、今これを読んだ限りでは、強い象徴性をもった神秘的パフォーマンスをイメージするに違いない。しかし重要なのは、このパフォーマンスにおいて、このように象徴性、ある種の崇高性はことごとく掻き消されることとなることだ。なぜか、それはグッゲンハイムの空間を考えてみればわかるだろう。先に書いたように観者は舞台を取囲み、さらに二階三階のスパイラル部分にも散らばっている。つまり、私たちが中央の舞台に目を向ける際、否応なく、その向こう側にいる別の鑑賞者の姿を視界の中に入れずにはいられないのだ。しかも彼らはしばしばおしゃべりをし、携帯電話で話していたりもする。このことにより、観者が中央で行われている神秘的行為に没入する事が完全にさまたげられる。言い換えればそれは、強いイメージ性を持つはずのオブジェやその行為からことごとく神秘的象徴性をはぎとり、単に滑稽な「もの」と変えてしまうのだ。象徴性の機能不全、意味性の失調こそがここに立ち現れるだろう。


とはいえ、そもそも強い神秘性を帯びたボイスの作品における神秘性を剥ぎ取る事が本当に目指されていたのかどうか定かではない。いずれにせよ、スパイラル状の建物の中央に置かれた舞台の上では、もはや意味を失った物体たちが退屈に行き交っていたことを記しておきたい。それを成したのは、あらゆる方向から注がれる無数の観者の眼差しであったことも。


■その他には、Whitneyにて「リチャード・タトル」、Guggenheimの「ロシア!」、Japan Societyの「杉本博司−−歴史の歴史」など、いずれも、なかなか興味深い展覧会。