絵画を再起動するために

千葉雅也さんという強力な論客と共に「絵画」について話す。こういうテンションの中に身を置いてゆけるということは幸福なことだとおもう。せっかくの機会なので、気の抜けた話や、互いの仕事を確認しあうような内容にはしたくないし、それぞれの関心が交錯するところで、抽象性と具体性との間を往復しながら、話し手にとっても聞き手にとっても意義のある議論を積み上げていければと思います。


ともあれ何を話すべきだろう。僕自身、いろいろな形で「絵画」という問題に引きつけられてきているのだけれど、実際にはいわゆる「絵画」というプログラムにおけるオーソドックスな方法、つまりキャンヴァス地に絵筆やナイフを用いて絵具を付着させる、という最も基礎的な単位を回避しながら「絵画」の周りをさまざまな形で旋回している。むろん、そうした正統的な前提を回避してしまっていることに対する、ある種の後ろめたさもある。ともあれ、今いかに絵画が可能かと言えば、そこに立ちふさがる困難さもまた明白なわけで、その困難さをスルーして「自由」に振る舞うことも、またできない。


「美術」というフレームに話を広げれば、9.11以降に加速する形で、美術の非政治/社会化-商品化した層と、政治/社会化-文脈化した層とが、乖離的に並存しているという状況で、前者はアートフェアやコマーシャルギャラリーにおいて、後者は国際展や地域プロジェクトなどにおいて、混在しつつもある程度の住み分けができている。あまりにも容易に非政治/社会化することができるし、逆にあまりにも容易に政治/社会化の道を選ぶこともできる。もちろんそのどちらの道にしても、そこで徹底してゆくことは大変だし、意味のあることだとも思うけれど、むしろこういった二つの傾向をもその視野に入れつつ新たな視野を切り開いてゆくことこそが、今後の課題になるはずでしょう。それは決して美術内部の歴史や理論に居直るということではあり得ない。「絵画」という所与のプログラムを単純に容認するわけでもなく、かといってそのフレーム/アーキテクチャを安直にスクラップにしてしまうわけでもない、所与のプログラムを受け入れつつ、新たな形で開いてゆくこと。「絵画を再起動する」というタイトルにはそういった意図が託されていますし、今後、さらなる議論を展開してゆくための布石を散りばめておけるような、そんな機会にしたいと思います。「絵画の準備」では終わらないぞ!というのが、ぶっちゃけ、隠れた(もはや隠れていない)個人テーマです。


いろんな方が聞きにきてくださるそうで、若干緊張ですが、普段僕らが生産の場(ワークショップ)として使っている場が、議論の場に変貌しようとしている、そのこと自体が楽しみです。会場には僕の未発表の小作品と、一年前に芸大でつくった「まぼろしの」出版物、The Bigger Issueも数部ご用意しています(草彅くんも、擁護します)。ヌルい春の空気を切り裂く、キレのある議論になるかどうか?ともかく、よく寝て、がんばりたいと思います。