恵比寿ガーデンシネマにて「トウキョウソナタ」。


共同体としての家族とか、父親の尊厳とか、そういうものが頑として残っているわけでもなく、しかし完全に破綻しているわけでもない、なんとも中途半端な状態をうまく描いている。一方で大学生の長男が夕飯の時間にも帰ってこなかったり、小学生の次男が給食費を使い込んだりするのだけど、同時に、夕食の場面で、皆が席について待っているのに父親が何も言わずビールを飲み、子供たちはじれったそうに待っている。父親が「いただきます」と箸をつけると皆がいっせいに食べ始めるというような、ある部分では形骸化した権威性はかろうじて保たれているともいえる。そんな中途半端さ。


このような中途半端な家族の関係性を抱え込むリビングルームの「狭さ」。その狭さは東京の狭さでもあって、父親にとってのオフィスや長男にとっての都会の雑踏、次男にとっての教室、といったかたちで変奏される。男たちはこの狭さが強いる人間関係のうっとうしさに耐えきれず他のどこか(転職、アメリカ、ピアノ教室)へと希望を見いだそうとする。そんななか唯一、あらゆる関係性を拒まず受け入れる存在、母親・小泉今日子がいるというわけだ。まあ構造としては当たり前だけど、包丁をもった強盗までをも受け入れてオープンカーで海まで行き、広がりそのものとしての海(母性)と一体化するという、こんな解釈もすでに黒沢清にして織りこみ済みなのだろう。そうしてやがて母も次男も父親も(手紙を通じて)長男も、狭苦しい現実の中に戻ってくる。


図式的にもなりかねない、この「狭い」空間の中での家族の姿にリアリティを与えているのは、親子の、特に父親(香川照之)と次男(井之脇 海)の顔があまりにも似ている、という、映画的フィクションを越えた単なる事実だろう。崇高な理念(「世界のために」働くことをのぞむ大学生)や、うっとおしい自意識(「他人といるのは疲れる」という小学生)をも越えて、家に帰れば結局のところ自分と同じ顔をした冴えない父親がいる、というリアリティ。そもそも、映画では香川照之の、かなり暑苦しくも凡庸な顔が何度も正面から捉えられている。イデオロギーナルシシズムをも無効にしてしまう血のつながりのリアリティ。このバカバカしく身も蓋もないような現実から離脱すべく、長男は広い世界を求め、次男はより小さく親密なファンタジーを求める。父と子の象徴的な関係(ゲシュタルト)を基底としての母(マトリクス)が下支えする、というのでなく、父と息子がこういうリアルな顔でつながっているというのが効いて、映画にしっかりとした手触りを与えている。形式としてはコメディあり、シリアスあり、ホラーあり、ドタバタありで、転調に転調を重ねていく感じだけど、ソナタよろしく家族の日常を描いた提示部があり、そこからの逸脱としての展開部、家への帰還としての小さな再現部を経て静かにコーダへ至る。


小泉今日子はたぶん「女優になった!」とか「ボセイに目覚めた!」とか言われるんだろうな。映画を見終えると、すっかり夜。JR恵比寿駅前のあたりは平日だというのに、これから遊びに出かけるのだろうという若い人たちの、中途半端に金のかかってそうな姿。映画の外の方がよほど虚構的な空間なのだった。こういうムリにがんばった世界から離脱して「女優」として評価されるのであれば、映画という世界もそんなに悪くはないのかも。観客のほうへ正面切って放たれた「お母さん役も大変なんだよ」という台詞は、こうした「女優」として期待される小泉今日子その人によって、スクリーンの外に向けて投げられた言葉だった。