京都芸大、東京芸大?

昨日、名和晃平さん、田幡浩一と一緒に上野の「さかなさま」で飲む(ぼくは飲まないので食べるだけ)。


名和さんからは、京都での学生時代のことや世界的な活動展開のことなどを聞く(こういう先輩作家がいるというのは、すごく幸運なことだ)。
特に、京都市立芸大と東京芸大とのノリの違いは大きいな、と実感。ぼくも学部時代は京都にいたので少しは知っていたけれど、京都芸大はわりと僻地にあって周りに何も無い状態。学生も少なく、大体みんな知り合いみたいな状態だと思う。で、そんな中から友達どうしの付き合いもうまれるし、自然と友達や先輩を手伝ったり、という空気が生まれるのだそう。名和さんの場合は特に彫刻科だということも、大きいのだとは思うけれど。学部の一二年生くらいの頃に先輩なんかの手伝いをしながら素材の扱いを学び、作品のクオリティーに触れ、失敗も見ることができたことはやはり大きいという。


他方で、東京芸大は基本的に個人ベースで、正直ぼくも(京都造形での学部時代含め)先輩の手伝いをしたことはほとんどないし、そもそも芸大の院では第一期生にあたるので先輩がいなかったのだ。それゆえになのか、自分の制作で人手がいる時にも、協力者を集めるのにすごく苦労した記憶がある。先端科は特に、だとおもうのだけれど、圧倒的に個人志向が強い。皆が全くバラバラな方を向きながらそれぞれの活動に取り組むので、共有できる技術や素材が少ないということも、その一因だろう。良くも悪くも、今、先端科ではいわゆるアートプロジェクト志向の人は、少し前に比べれば減っていて、もうすこし造形的な方に学生の関心が寄ってきている気がする。なんというか、少し前までは先端科的傾向として、美術という制度や、美術作家的な制作態度に対してアイロニカルあるいは批評的な距離を保つ、というのがあったようにおもうけれど、最近ではもうすこし素直に、素材や造形に向かい合いたい、という人が増えている。


しかし、だからといって制作をサポートしあうような人間関係が突如として出来るわけでもなく、どうも互いの制作に関して無関心でいることが常態化していて、あまり良い傾向だとはいえない(重ねていえば、ぼく自身、他の人の制作に関心を払ってこなかったので、これはぼく自身への批判でもある)。別にコンセプトがどうとか、そういうメンドクサイ話は置いておいて、もっと基礎的な部分での情報共有ができる仕組みがあるべき、というかそんなの人間関係でしかあり得ないと思う。ぼくが非常勤で担当しているM1では、バラバラな傾向をもった院生たちの傾向をシャッフルして、関心を水平的に広げていけるような取り組みをしてるけれど、同時に、学年をこえて似たような関心を持った人たちが情報を共有するための垂直軸のつながりが必要なのかもしれない。


こういうことをいうのは、別に大学の中でのみ、あるいは学生のうちだけそういう協力体制を必要とするのではなくて、世界的な活動を展開していく中である種の組織力はひとつの条件になってくる、という話を名和さんが強調していたからだ。あらゆる場所でビエンナーレやらアートフェアやらが乱立して、その渦の中で自身の活動を展開していく上で、個人の作家が何から何まで自分でやるというのは不可能だし、現に名和さんも自身のスタジオに複数のスタッフを抱えていて、世界的にいえば数十人からのスタッフで回していくというのもざらな状態。ぼく自身、MITの美術館でインターンをしながら、そういった状況をすこしづつ知っていった。もちろん、作家にはそれぞれの関心や方向性があるわけで一概には言えないけれど、少なくともぼくが学生だった頃、そういうことを直接聞ける近い先輩はいなかったし、先生ほど年が離れると、問題(関心)の枠組み自体が変わってしまうから。


そんなわけで、なんとか、とりあえず先端科の無関心メタボ体質改善を目指せないものかしら。